[#表紙(表紙.jpg)] 西村京太郎 恐怖の海 東尋坊 目 次  恐怖の海 東尋坊  恐怖の湖 富士西湖  恐怖の清流 昇仙峡  恐怖の橋 つなぎ大橋 [#改ページ]   恐怖の海 東尋坊      1  日下《くさか》刑事は、帰宅すると、留守番電話を聞くのを、楽しみにしていた。若いし、人脈の少い日下だから、最初の頃はほとんどメッセージが入っていなかったのだが、最近は、日下が留守番電話にしているとわかってきて、メッセージが多くなった。  特に、正月の三ヶ日は、多かった。日下は、二日、三日と、故郷に帰っていたのだが、帰ってみると,友人から、正月のあいさつが入っていて、楽しかった。年賀状代りに、メッセージを入れておく友人が多かったのだ。  正月も、十五日を過ぎると、それも少くなって、留守番電話は何もいわなくなった。  一月二十日も、帰宅すると、あまり期待せずにボタンを押した。  そのまま、着がえをしていると、  〈日下さん〉  という若い女の呼びかけが、聞こえた。  日下は、おや? という顔で、電話に眼をやった。 [#1字下げ]〈私、野村ひろみです。覚えていますか? 大学で一緒に演劇サークルにいた野村ひろみです。今、北陸の永平寺に来ています。明日、東尋坊へ行くんですが、東尋坊で私を殺すといっている人がいます。怖いんです。きっと、私は殺されます。でも行かなければなりません。お願いです。こちらへ来て、私を守って下さい。お願い。私を助けて下さい──〉  野村ひろみなら、よく覚えていた。大学に同好の集りの演劇サークルがあって、彼女は、そこのマドンナだった。日下は、彼女と一緒にいたくて、その演劇サークルで大道具の係をやったことがある。  去年の同窓会で、久しぶりに会って、日下は名刺を渡している。それで、電話して来たのか。  あの時、ひろみは、A自動車の専務秘書をしているといい、颯爽《さつそう》としていたのだ。  日下は、あわてて、机の引出しを探し、彼女に貰《もら》った名刺を見つけ出してきて、それを見ながら、もう一度、留守番電話に吹き込まれた彼女の声を聞いた。  同窓会で会った時の自信にあふれた調子は、どこにもなかった。別人のように、頼りなげで、怯《おび》えている。  殺されるというのは、ただごとではない。だが、いきなり、明日、助けに来てくれといわれても、刑事の日下には、動きがとれなかった。三日前に起きた殺人事件が、まだ解決されずに、尾を引いているのである。  日下は、気になりながらも、翌日もその事件の捜査に追われた。  夜おそく帰宅すると、まず、テレビのニュースを見た。  東尋坊で、若い女が殺されたというニュースが出るかも知れないと思ったからだが、何もなかった。十一時のニュースが報じたのは、相変らずのゼネコン疑惑と、食中毒だった。  留守番電話にも、何も入っていない。日下は、ほっとした。ひろみは、何かに怯えて日下に電話したのだが、それは杞憂に終ったらしい。  翌二十二日も、日下は同じ世田谷区太子堂で起きた殺人事件に追われていた。会社社長が殺されたのだが、家族関係が複雑で、犯人の特定が難しいのだ。  この日は、午後九時過ぎに帰宅し、いつものように、留守番電話のボタンを押しておいて、着がえをする。  〈日下さん〉  と、ひろみの声が、聞こえた。日下は、着がえの手を止めた。 [#1字下げ]〈日下さん。なぜ、来てくれなかったの? あなたしか頼む人がいなかったから、助けて下さいと、お願いしたのに。おかげで、私は殺されました。恨みます──〉  日下の背筋に、冷たいものが走った。もちろん、殺されました──というのは、嘘《うそ》だろう。日下が、東尋坊に行かなかったのを怒って、そんないい方をしたのだと、思った。が、それでも、一瞬、日下の胸を戦慄が走ったのだ。  日下は、行かれなかったことを電話で謝ろうと思ったが、彼女に貰った名刺には、自宅の電話番号が刷っていなかった。  翌日、出勤すると、捜査の合間に、A自動車に電話をしてみた。  青木という専務が、電話に出てくれて、 「野村君は、二十日から欠勤しております。無断欠勤なので、心配して、自宅に電話しているんですが、誰《だれ》も出ません」  と、いった。 「彼女、最近、何かに悩んでいたということはありませんか?」  と、日下は、きいた。 「さあ、いつも通り、テキパキ仕事をしてくれていましたがねえ」  と、青木は、いう。日下は、ひろみの自宅の住所と電話番号を聞いて、電話を切った。  太子堂の社長殺しは、相変らず、解決のきざしが見えない。  殺された脇田肇は、五十二歳。銀座に宝石店を出している、かなりの資産家だ。一月十七日の夜、太子堂の自宅近くの小さな公園で、パジャマの上からナイトガウンを羽織った恰好《かつこう》で、殺されていた。背中と胸を刺されて、血を流しながらの死だった。  寝室を別にしている妻の洋子は、脇田が外に出て行ったのを知らなかったといい、別棟に住む娘夫婦も、気がつかなかったと証言している。財産争いが動機と十津川警部たちは見ていたが、脇田は女性関係が派手で、それが捜査を難しくしていた。  二十三日も、疲れて、夜おそく帰宅した。  留守番電話を聞くのが怖かった。が、手を伸ばして再生ボタンを押した。聞かないのも怖いのだ。  〈日下さん〉  と、また、ひろみの声が流れた。 [#1字下げ]〈私を助けてくれなかったんだから、せめて、私の死体を早く見つけて! このままでは、浮ばれない。苦しいわ。このまま、誰にも、死んだのを知って貰えないのは──〉  ひろみの声は、低くよどんで、呻《うめ》くように聞こえる。  日下の理性は、ひろみがまだ生きていて、留守番電話を使い、恨みつらみをいっているのだと思うのだが、彼の感情は、怯えて、居ても立ってもいられなくなった。  日下は、中古の自家用車を駆って、ひろみのマンションに向った。彼の車は、ヒーターの利きが悪いので、一月の夜の寒さがこたえるのだが、今夜はその寒さを忘れていた。  彼女の自宅マンションは、国立駅の近くだった。新築の豪華マンションである。まず、そのことに驚かされた。  管理人室のボタンを押し、入口の重いガラスドアを開けて貰った。  管理人は、眠たげな顔で、 「三階の野村さんは、お留守の筈《はず》ですよ」  と、いう。 「それは、知ってるんだ。ただ、念のために、部屋を見てみたい」  と、日下は、いった。  日下が、刑事だということで、管理人も、渋々だが、三階へ案内してくれた。  三階の角部屋だった。  彫刻をほどこされた木製のドアに、「野村」と書かれた表札が、取りつけてある。  日下は、それを見上げてから、 「なんだ? これは」  と、大きな声を出した。  表札の傍に、「忌中」と書かれた白黒の札が、貼りつけてあったからである。  管理人も、眉を寄せて、 「誰が、こんないたずらを──」  と、絶句している。 「いつから、これが貼ってあるか、わからないか?」 「わかりませんよ。わかっていれば、剥《は》がしています」  と、管理人はいい、背伸びして剥がそうとするのを、日下は止めた。 「部屋の中を見たいんだが」 「それは出来ません。このマンションは、安全が売り物です。それなのに、留守の間に勝手に入ったりしたら、その安全に疑問が出てしまいます。第一、私はマスターキーを持っていません」 「しかし、万一に備えて、各室のスペアキーは預っているんだろう?」 「それは、留守にする方は、預けていかれる人もいますが」 「じゃあ、開けてくれ。ひょっとすると、彼女はこの中で、死んでいるかも知れないんだ」 「本当ですか?」 「ああ、会社も無断で休んでいるし、死んだという話も聞いてるんだ」  と、日下は、管理人を睨《にら》むようにして、いった。  その気勢に押されたのか、それとも忌中の貼り紙に怯えたのか、管理人は、野村ひろみに預ったというスペアキーを持って来て、ドアを開けてくれた。  部屋全体が暗く、冷え切っている。日下は明りをつけ、暖房のスイッチを入れた。  音を立てて、暖気が吹き出してくる。日下は、広いリビングルームを、見廻した。  2LDKということで、二十四畳ほどのリビングルームの他に、和室と、洋室がある。洋室にはダブルベッドが置かれ、彼女は寝室に使っているようだった。  バスルームものぞいてみたが、誰の死体も見つからなかった。  洋ダンスを開けてみると、毛皮のコートなどに混って、男物のナイトガウンが見つかった。  二十八歳の女性だから、男の影があっても不思議はないのだが、日下は、何か裏切られたような気がした。 (恋人がいるのなら、何も、おれに助けを求めずに、その男に助けを求めればいいのに)  と、思ったからだった。 「この部屋は、いくらぐらいするの?」  と、日下は、きいてみた。 「ここは、月三十五万円だったと思いますよ」 「彼女は、いつから、ここに住んでるんだ?」 「確か、一年半ほど前ですよ、ええ。部屋代は、きちんと払って頂いています」 「男が、時々、来ていたと思うんだが、見たことがあるかね?」 「さあ、見たことがありませんね。ここは、別に管理人を通さなくても、各部屋の住人と対話が出来ますし、入口は開くようになっていますから。個人のプライバシイが守られるのが、このマンションの売り物なんですよ」  と、管理人は、いった。      2  次の日も、帰宅して、留守番電話を聞くと、彼女の声が吹き込まれていた。 [#1字下げ]〈日下さん、なぜ、私を見つけてくれないの? このままでは、死に切れない。悔しい。本当に悔しい。助けて。助けて下さい!〉  翌日、日下は、亀井刑事から、 「どうしたんだ?」  と、きかれた。 「別に、どうもしませんよ」 「いや、顔色が悪いぞ。どこか身体が悪いんじゃないか? 医者に診《み》て貰ったら、どうなんだ?」 「大丈夫ですよ。どこも、悪くありませんよ」  と、日下と亀井がいい合っていると、十津川が心配して、質問してきた。 「何でもありません」  と、日下はいったが、十津川は、「ちょっと来い」と、部屋の隅に連れて行って、 「ここ二、三日、カメさんと、心配していたんだ。身体が悪くないんなら、精神的なものか? いつもの君らしくないんで、心配なんだよ」 「今度の事件がもつれているんで、そのせいだと思います」  と、日下は、いった。しかし十津川は、 「違うな。いつもの君なら、もつれた事件ほど、面白がって、突き進んでいくじゃないか。それに、昨日は、今度の事件に関係のない北陸の地図を見ていた」 「申しわけありません」 「捜査は、共同作業なんだ。一人だけ他所見《よそみ》されては困るんだよ」 「すいません」 「二日、休みを取って、君の問題を解決して来たまえ」 「そんなことは、出来ません」 「日下君。私やカメさんが、君のことを心配して、こんなことをいうんだと、自惚《うぬぼ》れちゃ困る。私は、君のことより、他の刑事たちのことが心配なんだ。今もいったように、捜査に熱の入らない刑事が一人いると、全体の士気に影響してくるんだよ。そんな刑事が、捜査に加わっていることが、困るんだ」  十津川は、冷静な調子で、いった。こんな時の十津川は、冷たく、怖い。  日下が黙ってしまうと、十津川は、休暇願の用紙を、持って来させて、 「明日から二日間、休みを取りたまえ。君のためじゃなく、他の人間のためだ」  と、厳しい声で、いった。  日下は、二十六、二十七日の二日間の休暇願を出した。  この日も、帰宅すると、ひろみの声が留守番電話に入っていた。  〈日下さん。お願い。早く私を見つけて!〉  それだけだった。  翌二十六日。日下は、羽田から、小松行の第一便に乗った。彼女を探すとなると、東尋坊しか、思い浮ばなかったのだ。  吹雪の北陸を覚悟していたのだが、小松空港は、晴れて、穏やかな空模様だった。  それでも、海を渡ってくる風は、冷たく、強い。  日下は、タクシーを拾って、東尋坊に向った。  道路の両側には、点々と雪が積っている。それが眩《まぶ》しく、日下は車の中でサングラスをかけた。  日下は、東尋坊のことはテレビなどで知っていたが、自分の眼で見るのは初めてだった。  切り立った断崖と、人気《ひとけ》のない大地というのが、日下の持っている東尋坊のイメージだったが、実際に来てみると、全く違っていた。  見晴台をかねた大きなレストランがあり、断崖近くの坂道には、江の島のように、両側に土産物店が並んでいる。海が荒れている今日は、遊覧船は出ていないが、海が穏やかな頃は、遊覧船がひっきりなしに出ているのだという。  自殺の名所と呼ばれるのが信じられない賑やかさだった。  いか焼きや、とうもろこし焼きの店で、客を呼ぶ声がかしましい。  しかし、その賑やかな一角を外れると、ひっそりと静かだった。  絵ハガキなどで知られた景色のところだけが、賑やかなのだ。それを外れると、風と波の音だけしか、聞こえて来ない。  遊覧船は運航を止めているが、小さな漁船が、波しぶきをあげながら、二隻、三隻と、沖に向って出て行くのが見える。  いくら海を見つめていても、ひろみが見つかるわけではなかった。  海風を受けていると、身体の芯まで冷え切ってしまった。日下は、展望台レストランに戻り、ラーメンを注文した。 (ひろみは、ここへ本当に、来たのだろうか? そして、ここで、何があったのだろうか?)  そんなことを考えながら、日下は、ラーメンを食べた。  窓ガラスの向うの水平線が、少し暗くなってきた。あの暗い雲が広がってきて、雨でも降り出すのだろうか?  北陸の天気は変りやすい、といわれている。  ラーメンを食べおわり、煙草に火をつける頃になると、急に粉雪が舞い始めた。陽が射しているので、粉雪がきらきら光って見える。  突然、外が騒がしくなった。このレストランの主人も、飛び出して行った。  日下は、伝票を持って立ち上り、料金を払いながら、レジの女の子に、 「何があったの?」  と、きいてみた。 「何だか、水死体が見つかったみたい」  と、彼女は、興味のない声で、いった。 「水死体?」 「きっと、飛び込んだのが、見つかったんじゃないの」 (自殺か)  と、思いながら、日下は外に出た。  断崖の下の船着場に漁船が着いて、毛布に包まれた人間の身体らしいものを、しきりに揚げようとしている。  波が荒く、漁船が激しく上下するので、なかなか作業が進まない。そのうちにパトカーが着いたらしく、制服の警官が二人、駈けて来て、船着場へ降りて行った。  やっと、毛布に包まれたものが、漁船から、船着場に持ち揚げられ、それを今度は二、三人で担いで、断崖の上に運ばれてきた。 「どいて、どいて!」  と、警官が、集って来た野次馬をかきわける。  日下は、彼等のあとに追《つ》いて行った。  パトカーと、小型トラックが並んでとまっていて、二人の警官は、毛布に包まれたものをトラックにのせた。  日下は、警官の一人に、警察手帳を見せて、 「水死体ですか?」  と、きいた。  警官は、本庁の刑事が突然現われたので、びっくりした顔になり、 「漁師が沖で、女の水死体を見つけて、運んで来たんですが」 「ひょっとすると、私の知り合いかも知れないのです」 「じゃあ、一緒に来て下さい」  と、警官は、いった。  日下は、パトカーに同乗させて貰って、福井警察署に向った。  そこに着いてから、日下は初めて、毛布に包まれた女の水死体と対面した。  長い間、海水に浸《つか》っていたらしく、頭も身体もふくれあがり、顔は崩れかかっていた。  眼の下に横たわっているのが、野村ひろみなのかどうか、日下には判断がつかなかった。  靴はもちろん脱げてしまっているし、服も脱げかかり、辛うじて腰のあたりに巻きついている。 「どうですか? 知り合いの方ですか?」  と、県警の刑事にきかれても、とっさに日下には、答えられなかった。 「似ているような気もしますが、わかりません」  と、日下は、いった。 「そうでしょうね。ひどい状態ですからね」  と、相手も、同情するようにいった。  日下は、指紋をとって貰い、それで、判断することにした。死体は、解剖のために、大学病院に運ばれて行った。  日下は、県警がとってくれた指紋を持って、いったん、帰京することにした。      3  羽田に着くと、その足で、日下は、国立のひろみのマンションに直行し、管理人に協力して貰って、彼女の指紋がついていると思われる口紅と、ブラシを借りた。それを持って、今度は警視庁に行き、指紋の照合を依頼した。  日下は、その結果を、じっと待った。  同一人という結果が出た。  自宅マンションに、日下が帰ったのは、午前二時近かった。  ひどく疲れて、反射的に、留守番電話のボタンを押し、服のまま、ベッドに横になった。眠りかけた日下の耳に、吹き込まれていた声が聞こえた。  〈日下さん。発見してくれて、ありがとう〉  その声で、日下は、ベッドに起き上ってしまった。  バスルームに行き、眠気ざましに、顔を洗う。  東尋坊沖で、漁船が、若い女の水死体を発見したことは、午後のテレビニュースが伝えたろうし、夕刊にも、のっていたに違いない。  だが、日下が、今日、東尋坊に行ったことを、どうやって知ったのだろうか? それとも、当てずっぽうなのか。  日下は、郵便受に入っていた夕刊を持って来て、広げてみた。やはり、のっていた。  〈東尋坊沖で、若い女の水死体発見。自殺者か〉  と、新聞に、大きくのっている。  日下は、遅かったが、福井署に電話をかけ、向うで世話になった、三浦という刑事を呼んで貰った。  三浦は、電話口に出ると、 「指紋の照合の結果はどうでした?」  と、きいた。 「野村ひろみの指紋と一致しました」  と、日下はいい、彼女について自分の知っていることを、全部話した。 「そうですか。日下さんの同窓生ですか。お悔み申しあげます」  と、三浦は、丁寧にいった。 「それで、司法解剖の結果は、どうでした?」  と、今度は、日下が、きいた。 「海水に浸っていたのは、一週間ほどではないか。つまり、一月二十日前後に、海に入ったということです。正確な日時は限定できませんでした」 「それで、自殺、他殺、事故死の判断は、どうなりました?」  と、日下は、きいた。 「それで、困っているのですよ。後頭部の骨にひびが入っているので、殴られて突き落されたという考えも出来るんですが、落下したときに、下の岩礁にぶつけたと考えると、自殺、事故死の線も、出て来ますからね」  と、三浦は、いった。 「実は、二十日に、彼女から電話がありましてね。今、永平寺にいるが、明日、東尋坊に行く。東尋坊では、殺されるかも知れない、といっていたのです」  日下がいうと、三浦の語調が、変った。 「それ、本当ですか?」 「留守番電話に入っていました」 「それは、ぜひ、聞きたいですね」 「そちらに、お持ちしますよ」  と、日下は、約束した。  夜が明けてから、日下は、最初のテープを持って、福井に向った。そのあとのテープも、持って行きたかったのだが、幽霊からの電話ということで、相手に、余計な悩みを与えてはいけないと思って、持参はやめることにした。  福井警察署では、三浦の上司にも、テープを聞かせた。  署長と、刑事課長は、熱心にテープを聞いていたが、 「声の主は、間違いなく、野村ひろみさんでしたか?」  と、刑事課長が、当然の質問をした。 「正直にいって、確信はないのです。というのは、去年の同窓会で、八年ぶりに会って、その時、短い会話をしただけだからです。しかし、この電話を聞いた時は、彼女だと信じました」  と、日下は、答えた。 「殺されたとして、なぜ、殺されたか、その理由は、わかりますか?」  と、刑事課長がきく。それも、もっともな質問だったが、 「わかりません」  と、日下は、答えるより仕方がなかった。  日下は、同窓会の時に、一緒に撮った野村ひろみの写真を渡した。 「A自動車の専務が、昨夜、来てくれました」  と、課長は、写真を見ながら、いった。 「それで秘書の野村ひろみであることを、確認しましたか?」  と、日下は、きいた。  課長は、首を小さく振って、 「確認といっても、あれだけ、人相も変ってしまっていますからねえ。専務も、彼女だと思う、としかいえないようでした」 「専務さんは、今、何処《どこ》におられるんですか?」 「今日の午後、帰京すると、いっていましたよ。今は、市内のNホテルに、泊っておられる筈です」  と、課長はいい、日下が頼むと、そのホテルに、電話をかけてくれた。  日下は、課長から、受話器を受け取って、 「野村ひろみさんのことですが、給料は、どのくらいだったんですか?」  と、きいた。  電話の向うで、専務は一瞬戸惑っているらしく、すぐには、返事をしなかったが、 「二十五、六万円と、あと、ボーナスですが、それが、何か」 「彼女の家は、資産家ですか?」  と、日下は、続けて、きいた。 「いや、そんな風には、聞いていませんよ。北海道でご両親は、小さな洋品店をやっているということです。ああ、ご両親にも、私の方から、連絡しておきました」  と、専務は、いった。 「彼女は、部屋代三十五万円の豪華マンションに住んでいましたが、ご存知ですか?」 「三十五万?」  と、相手は、電話口で、絶句した。 「そうです。大きなマンションです」 「全く知りませんでしたよ。どうして、そんな高い部屋が、借りられたんですか?」  と、専務が、きく。 「私も、それを知りたいと思っているんです」  と、日下は、いった。  電話をすませると、日下は、刑事課長と三浦刑事に向って、 「彼女が殺されたんだとすると、動機は、金と男ですね」  といい、東京国立の豪華マンションのことを話した。 「彼女に、パトロンがいたということですか?」  と、刑事課長が、きく。 「ええ。彼女は、美人で、魅力的な女性ですからね。パトロンがついていたとしても、おかしくはないんです」 「今、日下さんが電話したA自動車の専務ですかねえ」 「かも知れません。電話では、違うみたいな対応をしていましたが」  と、日下は、いった。  二日間の休暇は、今日で終りである。日下は、東尋坊で死体が見つかって、ひとまず安心して東京に帰れると思った。  腕時計を見て、何とか、今日中に帰京できると思い、日下は礼をいって、福井署を出た。  小松空港までタクシーで急ぎ、最終の飛行機で、羽田に向った。  羽田空港から、十津川に電話をかけて、 「明日から、捜査に戻りたいと思います」  と、いうと、 「今から、こちらへ来ないか」  と、いわれた。 「何か、捜査に進展があったんですか?」 「ああ。だから、今すぐにでも、君にこちらへ来て欲しいんだよ」  と、十津川は、いった。  日下は、タクシーを拾い、捜査本部のある世田谷署に急いだ。  二日間いなかっただけなのに、「太子堂宝石商殺し捜査本部」の看板が、なつかしかった。  日下が顔を出すと、十津川が迎えて、彼を黒板の前に連れて行った。  そこには、事件の関係者の名前や、顔写真や、地図などが、貼られている。 「宝石商殺しの犯人は、妻と娘夫婦の三人が、共謀したんじゃないかという考えが、出て来てね」  と、十津川は、いった。 「それは、大いにあり得ますね」  と、日下は、肯《うなず》いた。 「妻の不満は、夫の浮気ではないか、女にだらしのないことではないかと思って、君にも、被害者の女性関係を、調べて貰っていたんだがね」 「はい」 「昨日になって、一人の女の名前が、浮んできた。野村ひろみ。二十八歳だよ」 「彼女なら──」 「そうなんだ。今日、福井県警からこちらに、捜査協力の依頼があって、びっくりしたんだ。しかも、君の名前も、いってきた」  と、十津川は、いった。 「本当に、野村ひろみが、被害者と関係があったんですか?」 「どうやら、彼女は、被害者から、毎月百万円の金を貰っていたらしい」 「それで、あの豪華マンションに、住んでいたということですか?」 「被害者の脇田が、銀座でやっていた宝石店だが、そこの従業員が証言したんだよ。一年半ほど前に店に来た客の中に、若くて美人の女性がいた。社長の脇田が、彼女に惚れたというんだよ」 「それが、野村ひろみですか?」 「従業員のいう顔が彼女と一致している」 「そういえば、彼女が国立の豪華マンションに入居したのが、一年半前です」  と、日下は、いった。 「それも、一致するわけだな。ただ問題は、今度の事件での彼女の役割だ。全く無関係に東尋坊で殺されたのなら、何の参考にもならない。その点、君は、どう思うんだね?」  十津川は、日下に、きいた。 「正直にいって、わかりません。時間的に考えると、脇田が殺された直後に、彼女も東尋坊で死んでいます。それに──」 「それに、何だね?」 「彼女は、死んだあとも毎日、私に電話をかけて来ていたんです」  と、日下は、いった。 「どういうことなんだ?」 「明日、留守番電話に入っていたテープを全部持って来て、お聞かせします」  と、日下は、いった。  翌日、日下は、彼女の声の入っている全てのテープを持って来て、捜査を担当している全員に聞いて貰った。  二番目、三番目のテープに進んでいくにつれて、刑事たちは顔を見合せた。  亀井が、日下を見て、 「どういうことなんだ? まさか、死人が電話をかけて来たとは、思っていないんだろう?」  と、きいた。 「もちろん、そんな馬鹿なことは、信じていません」 「しかし、全て、同一人の声ですよ」  と、西本刑事が、いった。 「一応、最初から最後までのテープについて、科研で声紋を調べて貰おう。声のよく似た女が、二回目から掛けてきていたのかも知れないからね」  と、十津川は、いった。  テープが科研に送られ、声紋が調べられている間、捜査本部は、脇田社長殺しについて捜査を進めた。  脇田が死んでトクする者は、わかっている。  妻の洋子。  娘のみどりと、その夫の治郎。  この三人が、脇田の残した莫大な遺産を相続する。  動機は、十分だった。  また、脇田が殺された時のアリバイは、三人ともない。  夜おそく、脇田は何者かに呼び出されて、パジャマの上からナイトガウンを羽織り、サンダルを突っかけて、百二十メートルほど離れた公園に行き、そこで殺された。  状況はそう考えられるのだが、妻の洋子や娘夫婦が共謀して、脇田を公園に連れ出して殺したということも、十分に考えられるのだ。  脇田が、野村ひろみという女に入れあげていたことがわかった今、妻の洋子の動機は強くなってきたと、十津川は判断した。  十津川は、洋子と娘夫婦を、重要参考人として捜査本部に呼び、話を聞いた。事件の直後に事情聴取をしたから、これで二度目である。 「私は、主人を殺してはいませんわ」  と、洋子は、前と同じ言葉を繰り返した。 「ご主人が、あなた以外の女性とつき合っていたことは、知っていましたか?」  と、十津川は、きいた。 「いいえ」 「しかし、あなたがご主人の女癖の悪さを、近所の奥さんにこぼしていたという証言があるんですよ。違いますか?」 「主人が女性にだらしがないのは、昔からですわ。いちいち、それに腹を立てても仕方がありません。もう、諦《あきら》めています。だからそのことで、主人を殺したりはしませんわ」 「野村ひろみという女性を、知っていますか? 二十八歳の美人ですが」  と、十津川はいい、彼女の写真を洋子に見せた。  洋子は、一応手に取って見たが、すぐ放り出して、 「こんな女、知りませんわ」  と、いった。  十津川は、娘夫婦にも同じ写真を見せたが、彼等も首を横に振った。 「一月二十一日は、どうしていました?」  と、十津川は、三人にきいた。 「主人が亡くなって、四日後でしょう。じっと家にいましたわ。娘のみどりと一緒にね」  と、洋子はいい、みどりの夫、治郎は、 「銀座の店に行っていましたよ。社長が亡くなって、私が臨時の社長代理ということで、店に出なければいけなかったんです。本当なら、しばらく休みたかったんですがね」  と、いった。 「北陸に旅行されたことは、ありますか?」  と、十津川は、三人にきいた。 「いいえ」  と洋子とみどりがいい、治郎は、 「大学時代に行ったことがありますがね。その後は、行っていませんよ」 「その時は、北陸の何処へ行かれたんですか?」 「金沢から、能登半島を旅行しました。ひとりでね」 「その時、東尋坊には行きませんでしたか?」 「行きません。今、いったように、金沢から和倉、輪島と見て、帰って来たんです」  と、治郎は、強い声でいった。  十津川は三人を帰すと、彼等の言葉の裏付けをとることにした。  刑事たちが、聞き込みに走り廻った。その結果、いくつかのことが、わかった。  治郎は、一月二十一日に確かに、銀座の宝石店に出勤していたが、従業員によると、昼から用があるといって、帰っている。  また、娘のみどりは、短大時代の夏休みに、女友だち二人と一週間にわたって、永平寺、東尋坊、金沢、能登と旅行していることがわかった。  二人とも、嘘をついているのだ。  その日の夕方、捜査会議が開かれ、そこで十津川が、三人の容疑は前よりも濃くなったと、いった。 「今年は暖冬といわれていますが、それでも一月十七日の夜は、四度Cまで下っていました。そんな寒さの中で、誰かに呼び出されたとしても、パジャマの上にガウンを羽織って、近くの公園まで出かけて行くのは不自然です。翌日でも宝石店に来てくれ、でいいわけです」 「やはり、三人共謀しての犯行説かね?」  と、三上本部長が、きく。 「ベッドを別にして寝ていたとしても、夫の脇田が、夜おそく出て行くのに気付かなかったというのもおかしいですし、別棟にいた娘夫婦も、気付かなかったといっています。不思議です。それに、娘のみどりも、婿の治郎も、嘘をついています」 「彼等三人が共謀して脇田を殺したとして、起訴できるだけの証拠はあるのかね?」 「残念ながら、まだありません」 「もう一つ、東尋坊で殺された野村ひろみとの関係は、どういうことになるんだ?」  と、三上が、きいた。  十津川は、日下に眼をやって、 「この件では、君の意見を聞きたいんだが」 「私の勝手な推理で、構いませんか?」 「いってみたまえ」  と、三上が、促した。 「脇田は、彼女に入れあげていました。一ヶ月三十五万のマンションに住まわせ、多分その他に、いろいろなものを買い与えていたと思います。彼女のマンションには男物のナイトガウンがありましたから、脇田は時々泊っていたと思います。とすると脇田は、もし自分が殺されることがあったら犯人は妻の洋子と娘夫婦だと、野村ひろみにいっていたんじゃないかと思うのです。そして、脇田が殺されました。ひろみは、洋子か娘夫婦に電話をかけ、あんたたちが殺したのを知っている。黙ってる代りに一千万円よこせとか、二千万円よこせと脅迫したんじゃないかと思います」 「そして、東尋坊に誘い出して、三人の中の誰かが殺したということか?」  と、三上が、きく。 「そうです。ひろみにしてみれば、パトロンの脇田を殺されてしまい、お金が入って来なくなったわけですから、その代りに金を要求するのは当然という気がしていたんじゃないでしょうか」  と、日下は、いった。      4  翌日になって、科研の報告が届いた。声紋の照合の結果、全てのテープの声は、同一人のものと、判断されるという報告だった。  十津川たちは、改めて、最初から、最後までの声を聞いた。 「さて、君はこれを、どう解釈するね?」  と、十津川は、日下に、きいた。 「二つ考えられると思います」  と、日下は、いった。 「いいだろう。二つとも、聞かせてくれ」 「私は、正直にいって、野村ひろみの声というのを、正確に知っているとは、いえないのです。去年の同窓会で、八年ぶりに聞いただけだからです。一月二十日に、留守番電話で、東尋坊で殺されるかも知れないから、助けに来て欲しいと聞いた時は、頭から、彼女のメッセージと、信じました。野村ひろみと、名乗ったからです。しかしあれは、ひょっとすると、声のよく似た別人だったかも知れません」 「別人だとすると、どういうことになるのかね?」 「私は、こう考えました。一月二十日には、すでに野村ひろみは、殺されてしまっていたのではないか。彼女の水死体は、一月二十六日に漁船が発見したわけですが、長く海水に浸っていたために、死んだのは二十日前後ということで、正確な日時は限定できないからです。十九日に殺されているのに、彼女の女友だちが、二十日に私に電話を入れ、東尋坊で殺されるかも知れないと怯えた声でいい、次には、早く死体を見つけてくれと、留守番電話を入れます。彼女は、野村ひろみが東尋坊で殺されたらしいが、自信はない。そこで私に探させようとして、こんな真似をしたのではないか」 「最後に、『日下さん。発見してくれて、ありがとう』という留守番電話を入れているところをみると、その女は、君が東尋坊へ行き、野村ひろみの水死体を見つけたことを知ったわけだな?」 「そうです。私を、尾行したんだと思います」 「もう一つの考えも、聞きたいね」  と、十津川は、促した。 「これは少し、とっぴかも知れませんが、全てのテープが、野村ひろみ本人のものだという考えです」  と、日下がいうと、亀井が変な顔をして、 「死人が、君の留守番電話に、メッセージを入れ続けたというのかね?」  と、きいた。 「そうじゃありません。彼女は、一月二十一日に、東尋坊で、洋子たちから、金を受け取る約束をしていたとします。その場合、東尋坊を指定したのは、彼女ではなく、洋子たちだと思います。娘夫婦は、前に、東尋坊に行ったことがあるからです。ひろみは、金につられて北陸へ行きましたが、すごく不安だったと思います。ひょっとして、連中が東尋坊で、自分を殺すのではないかという恐怖があったに違いないからです。そこで、二十日に、北陸から私に電話を入れ、明日、東尋坊へ行くが、殺されるかも知れないと、いっておきます」 「君が助けに来るのを、期待してかね?」  と、十津川が、きく。 「いえ。あんなあいまいな伝言で、刑事の私が動けないことは、頭のよい彼女にはよくわかっていた筈です。ただ、あの伝言を留守番電話に入れておけば、自分が消えたとき、私が、心配になって、探してくれることは、期待していたと思います」  と、日下は、いった。 「そして、二十一日に彼女は、東尋坊で殺された、ということだな?」 「そうです」 「そのあとの彼女のメッセージは、どういうことになるんだ?」 「彼女は、東尋坊で殺されるかも知れないという不安と、恐怖をもっていました。何千万もの金が手に入らずに、殺されたのでは、浮ばれない。といって、危険を冒さなければ、大金は手に入らない。それで、彼女は、殺された時、刑事の私に仇を討って貰おうと、考えたんだと思います。殺されたあとで、私を引きつける言葉を、テープに吹き込んでおき、友人なり、恋人なりに、一回ずつ、そのテープの言葉を、私の留守番電話に入れてくれるように、頼んでおいたんですよ」  と、日下は、いった。  十津川は、眉を寄せて、 「死体が発見されたときの、君に対する礼の言葉も、テープに入れておいたというのかね?」 「そうです」 「芝居っ気たっぷりだね」  と、十津川は、苦笑した。が、日下は笑わずに、 「そうです。彼女は大学時代から、芝居っ気の強い女性でした。演劇サークルでは、自分が主役でなければ満足しなかったですからね。死んだあとも、彼女は自分が主役で、芝居を演じたかったんじゃないかと思うのです。彼女の意図した通り、私は休暇をとって、東尋坊に出かけ、彼女の水死体が見つかる現場に、ぶつかりましたからね」  と、いった。 「そうだとしたら、死後に君に送るメッセージに、なぜ、自分を殺したのは脇田洋子やその娘夫婦だと、吹き込んでおかなかったんだ?」  と、同僚の西本が、きいた。 「それは、出来ないよ。彼女がそのテープを作った時は、まだ殺されていなかったからだ。彼女は確かに、東尋坊で殺されるかも知れないという不安を感じたんだ。しかしその一方で、たぶん大金を手に入れられるという期待も、持っていた。もし、死後に送るテープに、私を殺したのは脇田洋子たちと吹き込んでしまったら、それを渡された友人たちか、恋人は、驚いて、警察に連絡してしまうかも知れないじゃないか。そうなったら、ひろみが手に入れようとした大金は、おじゃんになってしまう。だからひろみは、犯人の名前をメッセージに入れなかった。いや、入れられなかったんだ」  と、日下は、いった。 「どうやら君は、第二の推理の方が、正しいと思っているようだね」  と、十津川が、いった。 「そうです。その方が、野村ひろみらしいと思うのです」  と、日下は、いった。  日下は改めて、野村ひろみの美しい顔を思い出していた。  考えてみると、彼女は、大学時代から、虚栄心のかたまりだったと思う。  あの頃、彼女は十分に美しく、ミス・キャンパスに選ばれたのに、それだけではあき足らず、演劇サークルに入り、ヒロインを演じたがった。  卒業後、彼女は、A自動車の専務秘書になった。虚栄心の強い彼女にとって、重役秘書という仕事は、満足できるものだったに違いない。  だが、彼女はまだ満足できなかったのだ。セクレタリーというのは花形ではあっても、給料が安く、彼女を経済的に満足させなかったのだろう。  だから、脇田の女になった。脇田を愛していたとは、思えない。金が欲しかったのだ。  その結果、彼女は、豪華マンションと、高価な毛皮と、その他のぜいたくを手に入れた。  だから脇田が殺されたとき、彼女は、悲しみよりも、せっかく手に入れたぜいたくな生活を失うことの恐れを、感じたのに違いないと思う。  彼女は、その恐れから、脇田の家族を、ゆすったのだろう。  きっと、怯えながら、ゆすったのだ。 (そういえば、野村ひろみは、高所恐怖症だった──)  と、日下は、思い出した。  大学時代、彼女は、校舎の屋上にあがりたがらなかった。  国立の豪華マンションでも、景色のいい六、七階ではなく、三階の部屋を使っていたのは、高所恐怖症のせいだろう。 (きっと、東尋坊へ行くのは、そういう意味でも、不安だったろう)  と、思う。  ひろみは、東尋坊のあの断崖の上に恐怖にふるえながら、大金を受け取ろうとして、立っていたのだろうか? 「西本と清水は、東尋坊へ行って、聞き込みをやってくれ。脇田洋子と娘夫婦の写真を持参して、彼等が一月二十一日に東尋坊へ行ってなかったかどうかを、調べるんだ」  と、十津川が、指示した。  次に、日下に向って、 「野村ひろみの死後のメッセージを、君の留守番電話に入れたのは、君のいう通り、彼女の友人か、恋人だろうと思う。君には、その人間を、北条君と一緒に探して貰うよ。私の考えでは、君と同じ大学の同窓生じゃないかと思うね」  と、いった。 「わかりました」  と、日下は肯き、北条早苗と二人で、まず、去年の同窓会で会った友人たちに会ってみることにした。  八年ぶりに会った友人たちから、日下は、名刺を貰っていた。  早苗と、パトカーで、その名刺に書かれた会社を訪れて廻った。  最初に会ったのは、永井克郎だった。  彼に、まず、的を絞ったのは、彼が大学時代、ひろみと同じ演劇サークルに入っていたからである。日下は大道具係で、それもすぐ辛くてやめてしまったのだが、永井は美男子で、ひろみと舞台で濡《ぬ》れ場を演じたりしていたのである。  去年の同窓会で会った時も、永井は、ひろみと親しげに話し込んでいたのだ。  その永井は、俳優にはならず、現在、大手のR商事で働いていた。  大手町にあるR商事本社の営業二課で、永井と会った。永井は、日下と早苗を、同じビルの中にある喫茶室に案内した。 「そろそろ、君が来る頃だと思っていたよ。野村ひろみのことだろう?」  と、永井が、先に切り出した。 「そうなんだ。君に聞いて貰いたいテープがあってね」  と、日下はいい、留守番電話の最初のメッセージを聞かせた。 「これ、彼女の声かね?」  と、日下は、黙って聞いている永井に、きいた。 「ああ、彼女だよ」  と、永井は、あっさりといった。 「間違いないか?」 「僕は、彼女とラブシーンを演じた仲なんだぜ。間違いなく、彼女の声だよ。それで、君は東尋坊に助けに行ったのか?」  と、逆に、永井にきかれた。 「それが、仕事に追われていてね。行けなかった」 「残念だな。刑事の君が行っていたら、彼女は助かっていたかも知れないのにね」  永井は、ちょっと、日下を非難するような口調でいった。  それが、少しばかり癇《かん》に触って、日下は、 「なぜ、君は、助けに行かなかったんだ? 卒業後も、彼女とつき合いがあったんだろう?」  と、きいた。 「多少はね。しかし、危険なことだったから、刑事の君に助けてくれと電話したんだろう。僕たちの中で、刑事は君一人なんだから、これはという時には、助けてくれなきゃなあ」  と、永井は文句をいった。 「君は彼女と、卒業後、どの程度つき合っていたんだ?」  と、日下はきいた。 「今もいったように、たいしてつき合ってはいないさ。一年に一回か、二回かな。そんなもんだね」 「彼女は、男関係で悩んでいたようなんだが、そのことで君に相談してなかったかね?」 「いや、ないね。彼女は気の強い女だから、自分の弱みを見せるのが嫌だったんだろうな。その彼女が、これだけ電話で頼んでいるんだから、よほど怖くて、君に助けて貰いたかったんだよ」  と、永井はまた、そこへ話を持っていった。  結局、永井からは、期待したようなことは聞けなくて、次に、同窓会の幹事をやっていた広田健児に会った。  広田は、学生時代から世話好きで、今はBテレビのAD《アシスタントディレクター》をやっていた。日下と早苗は、Bテレビ局に行き、彼の仕事の合間に、廊下で話を聞くことが出来た。  彼にも、立ったまま問題のメッセージを聞かせた。 「すごいテープだねえ」  と、広田は、ADらしいいい方をした。 「しかし僕は、東尋坊に行ってやれなくてね」 「おれだって、多分いかないよ。仕事があるし、本当かどうかわからないしね」 「この声だが、君は、野村ひろみの声だと思うか?」  と、日下は、きいた。 「もう一度、聞かせてくれ」  と、広田は、いったあと、 「やっぱり、彼女だな」 「そうか。永井も、そういっていたんだ」  と、日下がいうと、広田は、 「あいつなら、ひろみのことに詳しいよ。卒業後も、よくつき合っていたからな」 「おかしいな。永井は、卒業後はほとんどつき合いがないといっていたんだ」 「そりゃあ、永井が嘘をついてるのさ。おれは、二人が親しくつき合ってたのを知ってるよ」  と、広田は、いう。 「最近もか?」 「ああ。先月の何日だったかに、たまたま六本木に行ったら、二人が手を組んで歩いていたよ。声をかけたら、照れもせずにニヤニヤしてたから、ありゃあ、よっぽど親しいんだ」 「そんな仲か」 「君に嘘をついたのは、あいつ、一流商社のエリートだから、事件に関わり合いになるのが、怖かったんだろう」  と、広田は、笑った。  三人目に会ったのは、中林みな子である。  卒業後すぐ結婚したと聞いていたのだが、去年同窓会で会うと、旧姓に戻っていて、離婚後、テレビ、ラジオなどのドラマのシナリオを書いているのだと、いった。  派手な感じで、文学志向など全くないと思っていたのだが、人間はわからないものだと思った女である。  みな子には、中野のマンションに押しかけて行って、会った。 「あたしの方から、日下さんに会いに行こうと思ってたの」  と、みな子が、いった。 「何か用があってか?」 「今度、サスペンスドラマを書くんで、本物の刑事はどんななのか、聞きに行こうと思ってたのよ」 「時間があれば喜んで協力するが、今日は僕に協力して貰いたいんだ。野村ひろみが、東尋坊で殺されたことは、知ってるだろう?」 「知ってるわ。あれは、男関係が原因ね」  と、みな子は、あっさりいった。 「どうして、そう思うんだ?」 「この間、女秘書のことを知りたくて、A自動車に訪ねて行ったんだ。そしたら、彼女が、元気がないのよ。暗い眼をしてたしね。それで、何を悩んでいるのって聞いたら、つき合ってる男のことがもつれてしまって、困ってるっていってたもの」 「その相手の名前を、いったのか?」 「いいえ。いわなかったし、あたしも別に聞きたくもなかったから、ただ、ずるずる引きずっちゃ駄目、いざとなったら、すっぱり縁を切りなさいって、忠告だけしたけどね。あたしの経験で」  と、みな子は、いった。  日下は、彼女にも、例のメッセージテープを聞かせた。 「へえー」  と、みな子は、感心したような声を出してから、 「それにしても、変なメッセージね」 「殺されるかも知れないと電話してきて、その通り殺されてしまったからかね?」 「それもあるけど、彼女の喋《しやべ》り方よ」 「あれのどこが、おかしいんだ?」 「最初に彼女、『私、野村ひろみです。覚えていますか? 大学で一緒に──』って、いってるでしょう。でも、去年の同窓会で、会ってるじゃないの。それなら、去年の同窓会で会った野村ひろみですって、いうべきなんじゃないの?」 「なるほど。確かに、そうだな」 「刑事さんが、そんなことに感心してちゃあ、困るな」 「私は殺される、という言葉の方に、神経がいってしまってね。また、その通りに、殺されてしまったからな」  と、日下は、いった。 「あたしと違って、彼女はあれだけの美人だから、もっと幸福になるべきなのに、可哀そうね」 「君が、彼女に頼まれてたんじゃないのか?」 「何を?」 「彼女のメッセージを、僕の留守番電話に次々に吹き込むのをだよ」 「そんなことが、あったの?」 「彼女の死後、次々に、彼女の声が僕の留守番電話に、入っていたんだよ。殺されてしまったとか、早く、死体を見つけに来てくれとかね」 「へえ、面白いわね。でも、死者のメッセージなんていうのは、サスペンスとしてはちょっと平凡かなあ」  と、みな子は、笑った。 「君じゃないのか」 「それ、もし、やった人間がいたんなら、女じゃなくて男だと、あたしは思うよ」  と、みな子は、断定するようにいった。 「なぜ、男だと思うんだ?」 「彼女はね、ずっと男にちやほやされてきて、だから、女には嫉妬されて来てるわ。そんな彼女が、同性を信用すると思う? 信用するとしたら、男よ」  みな子は、また、断定するようにいった。 「男というと、永井か?」  と、日下は、きいた。 「永井クン?」 「ああ、テレビ局のADをやってる広田は、二人がずっと親しかったと、いってるんだ」 「そうねえ。永井クンとなら、似合いかも知れないなあ」  と、みな子は、肯いた。      5  外に出てから、日下は、同行した北条早苗に、 「今日は、珍しく、ずっと黙っていたね」  と、声をかけた。 「会った人は全部、あなたの友だちで、私よりよく知ってるわけだし、東尋坊で死んだ女性も、あなたの大学の同窓で、あなたのマドンナだったんだから、私があれこれいう必要はないと思ったのよ」  と、早苗は、いった。 「しかし、君は、女だ」 「認めてくれて、ありがとう」 「女の感性で、判断してくれないか。今まで会った中で、誰が、野村ひろみと組んでいると思う?」 「あなたは、永井というエリート社員だと思っているんでしょう?」 「ああ、美男子だし、野村ひろみにふさわしいし、現に、二人が仲良くしているのを、広田が見ている。去年の同窓会の時だって、彼女は、ほとんど永井とお喋りをしていたんだ」  と、日下は、いった。 「お似合いのカップル?」 「まあ、そうだ」 「男の人って、ロマンチストなのね」 「馬鹿にしたようないい方だな」 「そうじゃないわ。ある意味じゃあ、羨《うらや》ましいのよ」  と、早苗は、いう。 「女は、何なんだ?」 「どんな女でも、リアリスト。お姫さまでもね」 「だから、今度の件では、どういうことになるんだ?」  と、日下がきいたとき、パトカーの無線電話が鳴った。  日下が、受話器を取ると、十津川の声で、 「すぐ戻って来い。今、東尋坊に行った西本と清水の二人から、連絡が入った。脇田家の娘夫婦が、一月二十日に、東尋坊へ行っていることがわかったんだ」  と、大きな声で、いった。  日下は、早苗と、すぐ戻ることにした。  二人が捜査本部に帰ると、十津川は、あらためて、 「脇田の娘夫婦が、やはり、東尋坊に行っていたよ」  と、いった。 「一月二十日ですか?」  日下が、きいた。 「そうだ。一月二十一日ではなく、その前日だよ。あの夫婦は、車を飛ばして、東尋坊へ行っている。東尋坊近くのガソリンスタンドの給油係が、二人の顔と車を、覚えていた」  と、十津川は、いう。 「野村ひろみは、一月二十日に殺されて、東尋坊の海に、投げ込まれたわけですか」 「そういうことだろうね。とにかく、これであの娘夫婦に対する逮捕状はとれる。母親も多分、共犯だろう」  と、十津川は、いった。  十津川の期待通り、野村ひろみ殺しで、脇田みどりと婿の治郎に対する逮捕令状がおりた。  それを持って、まず、二人を逮捕し、連行した。  みどりは、頑強に否認した。が、婿の治郎の方が、先に白旗をあげた。おまけに、義父の脇田肇殺しまで、自供した。 「そのあとで、野村ひろみが、脅迫して来たんです」  と、治郎は、いった。 「それで、殺したのか?」  と、十津川が、きいた。 「五千万円要求してきたんです。私たちが、義父を殺したのを知っていると、いってね」 「莫大な財産があるんだから、五千万ぐらい払ってやろうとは、思わなかったのかね?」  と、亀井が、きいた。 「あの女は、義父をたぶらかして、金を出させていたんですよ。そんな女に、一回、五千万を払ったら、あと、いくら要求してくるか、わからないじゃありませんか。だから、殺さなければならないと思ったんです」 「なぜ、東尋坊なんだ?」  と、十津川が、きいた。 「私も、家内も、東尋坊に行ったことがあって、よく知っていたからです。それに、冬の日本海は、いつも荒れていて、あそこから突き落せば、まず、見つからない。そう思ったんです」 「野村ひろみは、OKしたのか?」 「最初は、他の場所にしたいといいましたよ。あんな怖いところは嫌だってね。でも、こっちは殺す気だから、強気に出てやりました。東尋坊以外なら、五千万は渡さないってね。あの女も、よほど金が欲しかったとみえて、渋々承知しましたよ」  と、治郎は、いった。 「それで、一月二十日の何時頃、東尋坊で会ったんだ?」  と、亀井が、きいた。 「天気がいいと、冬でも観光客が来るし、土産物店も開いています。だから、早朝にしました。午前六時五十分です」 「六時五十分?」 「日の出の時間ですよ。そんな時間なら、観光客も来ていないし、店も閉っていますからね。風が強くて、寒かったですよ。それでも、五千万欲しさに、あの女はやって来ましたよ。家内が、金の入ったボストンバッグを渡すふりをして話しかけ、私が、そっと近づいて、突き落したんです」 「それから、急いで、東京に引き返したんだな?」 「そうです」 「脇田肇殺しだが、母親の洋子も、加わっていたんだろう?」  と、十津川は、きいた。 「そうです。彼女はずっと、夫を憎み続けていたんです」  と、治郎は、いった。  十津川は、すぐ洋子に対する逮捕状を要請しておいて、娘のみどりに、 「君の旦那が、全て自供したよ」  と、告げた。  そのとたん、みどりは、怒りの眼になって、 「幽霊の声に怯えたりして、だらしがないったら、ありゃしない!」  と、叫んだ。 「幽霊の声って、何のことだ?」  と、十津川は、きいた。 「東尋坊から帰ったあと、毎日、夜になると、電話がかかったわ。それが、死んだ野村ひろみの声だって、治郎は怯えちゃったのよ。あたしは、誰かのいたずらに決ってるって、いったのに、怖がって、五千万円を払っちゃったりして。駄目な男だわ」  と、みどりは、吐き捨てるようにいった。  十津川は、もう一度、治郎にその点を問いただした。  治郎は、幽霊の声と聞くと、青い顔になって、 「本当に、夜になると、あの女が電話をかけてきたんですよ。なぜ、殺したのかとか、一生恨んでやるとかいうんです」 「それで、五千万払ったのか?」 「約束の五千万をなぜくれなかったのか、くれなければ、警察に知らせてやると、いうんです。そのうちに、警察も動き出す気配がして、私は、すっかり怖くなったんです」  と、治郎は、まだ怯えの残っている顔で、いった。 「どうやって、五千万渡したんだ? 幽霊が出て来て、受け取ったわけじゃないだろう?」  と、十津川は、きいた。 「マンションのあの女の部屋に、入れておいたんです。あたしの家へ持って来てくれと、いわれましたからね」 「部屋のカギは、どうしたんだ?」 「義父が持ってましたよ。義父が借りてやったマンションですからね」 「幽霊が五千万を要求したと、本当に信じたのかね?」 「少しは、疑いましたよ。しかし、あのマンションに行ったら、ドアに、忌中の札が貼ってあったんです。あの女が死んだことを、まだ、誰も知らない筈なのにですよ。私は、それを見た瞬間、ぞおッとして、金を入れて逃げて帰って来たんです」  と、治郎は青い顔で、いった。 「あのマンションは、外来者は勝手に入れないんじゃないか? 管理人に話して、入れて貰ったのかね?」  と、十津川は、きいてみた。 「管理人になんか、いいません。誰にも、見られたくなかったですからね。マンションの脇にかくれていて、中から人が出て来て入口が開いたとき、すれ違いに入って行ったんです」  と、治郎は、いった。      6  治郎の幽霊話と、五千万円のことで、今度の事件が、まだ、完全には終っていないことがわかった。 「脇田治郎は、君と同じように、幽霊からの電話を聞いたらしい」  と、十津川は日下に、いった。 「毎夜ですか?」 「ああ、治郎は、毎日、夜になると、野村ひろみから、恨みの電話がかかったといっている」 「私の場合も、毎日、留守番電話に入っていたんです」 「その上、治郎は、五千万払ってしまっている。忌中の札に怯えたらしい」 「あの忌中の札は、私も見ました。なぜ、貼ってあったか、わからなかったんですが、今、わかりました。五千万を奪うためだったんですね。確かに、あの忌中の札は、背筋が冷たくなりますよ」  と、日下は、いった。 「だが、幽霊が、現金を受け取る筈がないんだ」 「その通りです」 「野村ひろみは、君の友人だったから、彼女のことは、よく知っている筈だ。この幽霊話は、君が解決してみろ」  と、十津川は、いった。  日下は、考え込んでしまった。  五千万を受け取ったのは、もちろん、幽霊ではない。とすれば、彼女の友人か恋人なのだ。 (永井かも知れない)  と、思った。  ひろみと永井とは、親しかったようだし、去年の同窓会でも、永井がほとんど、ひろみを独占して、話し合っていたのだ。  ひろみが、事情を話して助けを求めたとしたら、永井しか考えられない。  日下は、永井のことを、ひそかに調べてみた。  その結果、興味あることがわかった。永井が、金に困っていたらしいというのである。  大企業のエリートコースを歩いているといっても、月給が、二倍、三倍というわけでもないし、彼自身、資産家の生れでもない。それなのに、虚栄心の強い永井は、無理して新車を買ったり、高い部屋代のマンションに住んだりして、かなりの借金をしているという噂《うわさ》だった。  日下は、永井以外の友人たちのことも、もちろん、念のために調べ直したが、一番怪しいのは、やはり永井だった。  だが、永井を逮捕するだけの証拠がない。 「どうしたらいいだろうか?」  と、日下は、早苗にきいた。 「警部は、あなたが解決しろといったんじゃなかった?」  と、早苗は、いう。 「そうなんだが、証拠がつかめない。それに、君の意見をまだ聞いてなかったよ」  と、日下は、いった。 「私の意見って?」 「一緒に、僕の友人たちに会って貰ったときさ。君は、男と女は違うといったじゃないか」 「ああ、あのことね」  と、早苗は肯いてから、 「一つだけ、いいたいことがあるんだけど、構わないかな」 「いいさ。いってくれ」  と、日下は、促した。 「日下さんは、毎日、留守番電話に入れてあったメッセージを、野村ひろみ本人の声だと思っているんでしょう? 自分がもし、殺された時のことを考え、テープに声を吹き込んでおいて、友人か恋人に、それを刑事のあなたに電話で聞かせて欲しいと、頼んだのではないかと」 「彼女の声だったし、彼女は、ああいうことが好きだと思ったからね」  と、日下は、いった。 「私は、それは、違うと思ってる」 「なぜ?」 「この間もいったけど、女はリアリストなの。五千万を自分が手に入れられなかったときのことなんか、考えないわ。また、相手を脅して、取ってやろうと思うだけだわ。それに、自分が殺されることも、考えないわ。相手が五千万円持って来て、それを受け取ることしか。考えるとすれば、誰か、ガードマンを頼むことぐらいね」  と、早苗は、いった。 「じゃあ、電話の主は、よく声の似た女ということになるのか?」 「そうなるわ」 「しかし、簡単に、声のよく似た女が見つかるものかな。それに、真に迫った声だったよ」 「でも、野村ひろみは、一月二十日の午前六時五十分に殺されてるわ。彼女は、同じ一月二十日に、留守番電話に、メッセージを送って来たんでしょう。もし、彼女が電話してきたのなら、それは、午前六時五十分より前になってしまうし、その時間なら、あなたは自宅にいたわけでしょう?」 「だから、彼女が、万一を考えてテープに録音していたのかと、思ったんだがね」 「脇田の娘夫婦を脅すメッセージも、テープに録音していたというの?」  と、早苗は、笑った。 「そういわれると困るんだが──」  と、日下は、言葉を濁した。  一月二十日に電話が入ったことは、確かなのだ。もし、それが彼女の声でなかったとすると、一日の間に声の似た女を見つけたり、あんなに真に迫った、感情の籠《こも》った声を、出せるものだろうか?  日下は、あいまいな感情のまま、その日、自宅に帰った。  どうしても、電話に眼が行ってしまう。  再生ボタンを、押してしまう。 [#1字下げ]〈日下さん。いろいろとお話ししたいので、次の日曜日に、東尋坊へ来て下さい。お会いして、直接、お礼がしたいの。観光客のいなくなった夕方でいいわ。午後五時に、東尋坊で待っています〉  あの電話の声だった。  早苗は、ひろみの声の筈がないといったが、日下には彼女の声に聞こえるのだ。  日下は、落ち着けなくなり、土曜日の夕方、東京を出発して、北陸に向った。  福井で泊り、日曜日の朝、東尋坊に出かけた。  風が強く、粉雪が舞っていた。  日曜日なので、土産物店も開いていて、観光客も来ていたが、天候が悪いので、その数は少かった。  もちろん、海は荒れ、観光船は姿が見えない。  東尋坊のレストランで、昼食をとった。 (誰が、いったい、来るのだろうか?)  と、レストランの窓ガラス越しに、荒れる海を見つめながら、考えた。 (多分、永井だろう)  と、思った。  ここにやって来て、おれに、何を話す気なのか?  奪った五千万円を半分渡すから、何もかも無かったことにしてくれとでも、いうつもりなのだろうか? (それとも、おれを、この東尋坊から、突き落とす気だろうか?)  午後四時を過ぎると、陽が落ちてくる。観光客もいなくなり、土産物店も店を閉める。  日下も、レストランから追い出されてしまった。  新聞を見ると、今日の日没は、四時五十二分である。  幸い、粉雪は止み、雲の切れ間から月がのぞいたが、風の冷たさは、変らないし、周囲はうす暗い。  日下は、コートの襟を立て、東尋坊の崖の上に向って、歩いて行った。  永井が現われたら、説得して、自首させようと決めている。  誰も、現われない。  五分、十分と経《た》ち、諦めて、日下が帰ろうとした時、人影が現われた。  女だった。  コートの襟に顔をうずめるようにして、ゆっくりと歩いてくる。  うす暗いので、顔はわからなかった。 「日下さん」  と、女が、立ち止って、呼んだ。  ひろみによく似た声だった。 「誰なんだ?」  と、日下は、きいた。 「私です。ひろみです。日下さんのおかげで、私を殺した犯人が、捕ったわ。ありがとう」  と、女がいう。  彼女の声が、強い風にあおられて、切れ切れに聞こえてくる。 「君は、誰なんだ?」  と、日下がいい、二、三歩、女に近づこうとした時だった。  背後で突然、 「危い!」  という、別の女の甲高い声が、聞こえた。  とっさに振り向くと、黒い人影が飛びかかってきた。  その腕をつかんで、柔道の腰車の感じで、投げ飛ばした。  悲鳴が、流れた。  黒い人影が転がって行き、崖下に落ちて行った。  日下は、崖の縁に駈け寄って、下を見すえた。  だが、激しい波音が聞こえるばかりで、海は暗いだけだった。  誰かが、傍にやって来た。 「大丈夫?」  と、きいた。  その声は、日下のよく知っている声だった。  北条早苗だった。  日下は、まだ、息をはずませていた。 「落ちたのは、永井かな?」 「違うと思うわ」  と、早苗が、いった。 「君は、顔を見たのか?」 「見てないけど、違う筈よ」  と、早苗は、いう。 「君は、なぜ、こんなところに来てるんだ?」  と、日下がきくと、早苗は身体をふるわせて、 「ここは寒いわ。レンタカーで来てるから、車の中で話しましょう」  と、いった。 「あの女は、どうする?」  と、日下は、最初に声をかけて来た女に、眼をやった。彼女は、その場に、しゃがみ込んでしまっていた。  早苗は、大股にその女の傍に行き、 「ここにいたら、カゼひくわよ」  と、いって、腕を取って、立ち上らせた。  レンタカーは、離れた駐車場に、とめてあった。  リアシートに、女を入れ、早苗と日下は前席に腰を下した。  早苗は、エンジンをかけ、ヒーターで車内を暖めた。  日下は、助手席から、身体をひねるようにして、リアシートの女を見た。女は、顔を伏せていた。  野村ひろみではなかった。美人だったが、ひろみには、あまり似てなかった。 「今朝、あなたのことが、心配で、寄ってみたの。思い込みが激しいようだから。そしたら出かけたというし、管理人さんに頼んで、部屋に入れて貰って、留守番電話を聞いたわ。そしたら、東尋坊へ行ったみたいだから、あわてて来てみたのよ」  と、早苗は、いった。 「おかげで、助かったよ。ただ、相手を、捕えられずに、海に、投げ込んでしまった」 「仕方がないわ。あれは、正当防衛だわ」  と、早苗は、いった。 「君は、永井じゃないといったね。どうしてなんだ?」  と、日下は、きいた。 「私が女だから、そう思ったのよ。一緒に、あなたの同窓生に会ったでしょう。確かに、永井という男は、カッコがいいし、遊び相手としては、楽しいと思うわ。でも、大事なことを相談する相手としては、駄目だわ。私だったら、彼には、相談しない。信用ができないもの。だから、野村ひろみも、脇田肇の家族を脅迫して、五千万円を取ろうという大事なことを、永井には相談しなかったと、思ったのよ」  と、早苗は、いった。 「じゃあ、誰に、相談したと思うんだ?」 「多分、広田という人ね」  と、早苗は、いった。 「テレビ局で、ADをしている広田か?」  と、日下が、きく。 「ええ」 「なぜ、彼なんだ?」 「同窓会の幹事で、世話役なんでしょう? 地味だけど、信用がおけるわ」  と、早苗は、いった。 「それだけの理由で、広田だと思うのか?」 「他にもあるわ」 「それを、話してくれ。海に投げ込んだのが誰か、知りたいんだ」 「野村ひろみは、広田に相談した。多分、ガード役を頼んだんだと思うわ。でも、一月二十日の午前六時五十分という早さで、広田は間に合わず、着いた時には、彼女の姿はもう無かったんだと思うわ。それで彼は、彼女が殺されたと考えたんだと思う。海に、突き落とされてね。彼は、自分を信用して大事なことを打ち明けてくれた野村ひろみのために、復讐してやりたいと、思ったんだわ」 「そこまでは、わかるよ」 「彼は、急いで東京に戻りながら、復讐の方法を考えたと思うの。警察にいっても、死体がなければ、取り合ってくれないだろう。といって、冬の荒れた海を自分で、船を出して探すわけにはいかない。第一、彼には、仕事があるわ。そこで、彼は、テレビ局のADらしく、ドラマ仕立ての復讐を考えたのよ。死んだ野村ひろみに声のよく似た女を探し出し、犯人と思われる脇田夫婦を脅し、同窓生の中で、刑事になっているあなたに捜査させるように、仕向けるというね」 「しかし、その日の夜には、もう、僕の留守番電話に彼女の声が入っていたんだよ。そんなに、簡単に、彼女によく似た声の女が見つかるものかな?」  と、日下は、いった。 「普通の人なら、無理だと思うわ。でも、広田は、違う。テレビ局のADなら、声優さんを沢山知っている筈だわ。野村ひろみの声によく似た声優さんを見つけるのは、そう難しくはなかったと思うの」  と、早苗は、いった。 「そうか。声優か」 「声優さんなら、多少、声の質が違っていても、うまく似せることは出来る筈だわ。それに、ただ声が似ている女だと、いかにも恨めしげに喋ったりは無理だけど、声優さんなら、声の演技も自由自在だわ」  と、早苗は、いった。 「なるほどね」 「留守番電話の声が、野村ひろみ本人のものじゃないことは、最初からわかってたわ。同窓生の中林みな子さんも、いってたじゃないの。野村ひろみが、最初の電話で、日下さん、覚えていますかと、呼びかけるのはおかしいと」 「そうなんだ。去年の同窓会でも、会ってるんだからね」 「第一、彼女は、自信満々な性格なんでしょう? そんな女は、覚えていますか──なんて、いわないわ。相手が自分のことを、当然、覚えているものと、思っているから」  と、早苗は、いった。 「しかし、広田が、声優に頼んで芝居をさせていたにしても、セリフは彼が考えた筈だよ。彼は、去年の同窓会に出ているし、幹事だったんだ。なぜ広田が、あんなおかしなセリフを、考えたのかな?」  と、日下は、いった。 「それは、多分、自信がなかったんだと思うわ」  と、早苗は、いう。 「自信がなかったって、どういうことだ?」 「彼もいってたんでしょう。野村ひろみは、ほとんど、永井と喋ってたって。だから、彼女があなたと話したのか、お互いに自己紹介したのか、見ていなくて、自信が持てなかったんだと思うわ。だから、セリフを考える時、つい、丁寧な、くどいものになってしまったんだと思う。私よ、野村ひろみよ、といった時、あなたが覚えていなかったら、彼の計画は、全て、ぶちこわしになってしまうから、どうしても、くどく、大学で一緒だったとか、覚えていますかというセリフになってしまったんだわ」  と、早苗は、いった。 「なるほどね」  と、肯いてから、日下は、リアシートの女に、眼を向けた。 「君の名前は?」  と、日下は、きいた。 「柏木ゆう子です」  と、女はふるえる声で、いった。 「声優さん?」 「はい」  と、女は、肯いた。      7  日下は、そのまま東京には戻らず、福井市内の旅館に入って、柏木ゆう子の話をテープにとった。 [#ここから1字下げ] 〈私は、柏木ゆう子、二十八歳です。劇団JMCに所属する声優です。仕事はあまりありませんから、お金には困っていて、週に三日、スナックで働いていました。一月二十日の昼過ぎだったと思います。テレビ局に顔を出していたら、突然、ADの広田さんに、呼ばれました。お金になるアルバイトがあるが、やらないかと、誘われました。私はお金が欲しかったので、すぐ飛びつきました。  最初に、女の人の声を聞かされました。それは、広田さんがその女の人と電話をしているのを、録音したものでした。広田さんは、こういいました。この女性は、君と声がよく似ている。癖もよくとって、より似せるようにしてくれって。私はプロの声優ですから、そんなことは簡単でした。二、三回聞いたら、彼女の話し方の癖も、完全にマスターしました。  その日の夜から私は、その女性の声で、広田さんの書くセリフの通り、二ヶ所に電話をかけました。  一つは、日下刑事さん。もう一つは、脇田夫婦への電話です。奇妙なセリフでした。片方は、死んだ自分を見つけてくれと、切々と訴えるセリフ。もう片方は、なぜ、殺したのと、恨みを並べるセリフでした。  でも私は、広田さんに何も質問しませんでした。秘密を守り、何も聞かないという約束だったからです。  ある時、脇田夫婦に、五千万を要求する電話をかけました。  その時も、何も質問しませんでしたが、そのあと広田さんは、百万円を現金でくれて、これはボーナスだと、いいました。私はもちろん、どういうことが起きているのか、よくわかっていました。広田さんの好きだった女性が、脇田夫婦に東尋坊の海に突き落とされ、殺された。私を使って、その復讐をやろうとしているのだということをです。  日下刑事さんへの電話は、冬の東尋坊に消えた彼女の遺体を、警察に探させようというのだと思いました。それが成功したのか、東尋坊沖で、漁船が、若い女の水死体を発見したというニュースが、新聞にのりました。これで、私の仕事も終るのだなと思いました。奇妙な仕事で、お金は沢山貰いましたけど、どこか秘密を隠して仕事をしているような気分がしていたので、終ると思った時は、ほっとしました。  ところが、昨日になって、広田さんに呼ばれて出かけて行くと、彼は突然私の前にひざまずいて、おれを助けてくれというんです。私がびっくりしていると、おれは警察に狙《ねら》われている。このままでいったら、刑務所行きだ。それを助けられるのは、君だけだというのです。私は広田さんから、奇妙な電話のメッセージをずっと頼まれている間に、少しずつ彼に魅かれていましたから、私にお役に立てることならと、聞きました。  広田さんは、こういいました。友人の刑事が自分を憎んでいて、何とかして自分を、殺人犯に仕立てあげようとしている。いくら弁明しても、聞こうとしない。そこで東尋坊に呼び出し、二人っきりで、じっくりと話し合いたい。自分が呼び出したのでは来てくれないから、君に頼む、とです。  私は、広田さんが人殺しなど出来る人ではないと、信じていましたから、彼のいう通りに、日下刑事の電話にメッセージを送りました。  私はそれですんだと思ったのですが、広田さんは、私にも一緒に来て欲しいといわれました。東尋坊で、いきなり自分が出て行ったら、日下刑事は用心してしまう。だからまず、君が声をかけてくれと、いわれたんです。私は別に、変だとは思わず、東尋坊でその通りにしました。私は広田さんが好きだったから、誰とでも仲良くして貰いたかったんです。  東尋坊には、日下刑事さんが先に来ていました。私は広田さんに促されて、相手に近づいて、日下さん、と呼びかけました。彼は私を見て、君は誰なんだ、と聞きました。私は、どう答えていいかわからなくて、黙っていました。  また、日下刑事が、君は誰なんだと聞きました。  次の瞬間、眼の前で起きたことは、私には悪夢としか思えません。広田さんが、日下刑事に飛びかかっていき、逆に投げ飛ばされて、崖から海に落ちて行ったのです。  私が知っていることは、これだけです〉 [#ここで字下げ終わり]  これが、柏木ゆう子の話した全てだった。彼女がどこまで、広田の行動について知っていたか、加担していたかは、今の段階ではわからない。  彼女は、共犯容疑で、逮捕されることになるだろう。が、日下には、正直いってそれは、どうでもいいことだった。  今、日下の心を占めているのは、大学時代の友人の広田が、自分を殺そうとしたというショックだけである。 「柏木ゆう子は、君が連れて行ってくれ」  と、日下は、早苗にいった。 「あなたは、どうするの?」  と、早苗が、きいた。 「もう一度、東尋坊を見て来たいんだ」  と、日下は、いった。  早苗は、何も理由を聞かなかった。それが日下には嬉《うれ》しかった。  早苗は、レンタカーで日下を東尋坊の近くまで送って来て、引き返して行った。  日下は、風に逆らうように、東尋坊の先端に向って、歩いて行った。  ふと、爆音が聞こえたので、顔をあげると、ヘリコプターが低空で飛んでくるのが見えた。  日下が、県警に事件のことを知らせておいたので、捜索のためにヘリコプターが来てくれたのだ。  崖の上には、県警の警官たちが来て、双眼鏡などで、海面を探している。  海は荒れていて、捜索の船は出せないようだった。  日下は崖の上に立って、海面を見つめた。波しぶきばかりが、眼に入ってくる。風が強く、立っていると、身体が倒れそうになってくる。  粉雪も、舞い始めた。  広田の死体は、果して見つかるだろうか? (見つからない方が、いいかも知れない)  ふと、日下は、そんな気分になっていた。 [#改ページ]   恐怖の湖 富士西湖      1  警視庁捜査一課の亀井刑事は、一月十七、十八の二日間、休みがとれたので、家族旅行で、富士五湖へ行くことにした。  といっても、ウィークデイである。小学校五年生の長男健一は、学校を休ませるわけにはいかず、この二日間は義母《はは》に来て貰《もら》って世話を頼み、妻の公子と五歳の長女マユミを連れて、三人の旅行ということになった。  最初は、暖かい伊豆へと考えたのだが、急にとれた休日なので、旅館が予約できなかったのである。  旅館は、石和《いさわ》温泉に決めた。  石和はもともと、ももやぶどうで有名な農村地帯だったが、昭和三十年代に温泉が出て、ホテル、旅館街が生れた場所である。  十七日、亀井一家は、新宿から一一時三〇分発の特急「かいじ105号」に、乗った。  亀井は、仕事で中央本線に乗ることがあり、特急は、「あずさ」ぐらいしか知らず、「かいじ」という特急の出ることは、今度の旅行で初めて知った。  時刻表にも、駅の表示にも、平仮名で「かいじ」とあった。漢字ならどんな字を書くのかわからなかったが、甲斐の国への列車だから、多分「甲斐路」ということになるのだろう。  あずさに比べると、かいじは、通勤列車という感じで、地味な雰囲気だった。  実際にもこの列車は、新宿を出たあと、三鷹、立川、八王子と停車して行くので、通勤客らしい人たちの姿が多かった。  八王子を過ぎると、次は大月まで停まらず、乗客の姿も一様に観光客らしくなってきた。それに合せたように、窓の外の景色も変って、急に山が迫ってくる。  五十二、三歳の車掌が、親切に、通路を歩いて来て、富士山がどの方向に見えるか、乗客に教えてくれる。  冬晴れで空気が澄んでいるせいか、雪をかぶった富士が、意外な近さで車窓から見えた。  観光客らしい人たちは、一斉に、左側の座席に移って、カメラを向けている。  亀井の妻の公子も、 「こんなに近くで、富士山を見たのは初めて」  と、驚いている。 「石和に着けば、もっと近く見える筈だよ」  と、亀井は、いった。  亀井は、今度の休みで、十七日は家族サービスに使い、十八日は富士五湖にひとりで釣りに行こうと考え、その用意をして来ている。  東北出身の亀井には、これといった趣味がない。ゴルフはやらないし、歩くのは、刑事の仕事みたいなものである。唯一の趣味といえるのが、釣りだった。  冬の富士五湖といえば、わかさぎ釣りが有名だが、この頃はめったに結氷せず、その上、ブラック・バスが増えてしまったので、それを目当てのフィッシングゲームが盛んだと、亀井は聞いていた。だから、その用意をして来たのである。  石和温泉駅に着いたのは、一三時〇五分だった。  さすがに、東京に比べると寒い。が、雪は、なかった。この近くでも、年々雪は、少くなっているのかも知れない。  駅前に出ても、温泉町にいる感じがしないのは、突然生れた温泉だからだろう。 「とにかく、腹がすいたよ」  と、亀井はいい、山梨名物という「ほうとう」を食べることにした。 「ほうとう」と、看板のかかった店へ入る。  どんな字が当てられるのか、わからないが、簡単にいえば、手打うどんである。  その手打うどんは、季節の野菜を入れ、みそ味で煮込んだものだった。  かぼちゃ、大根、にんじん、里芋などである。一緒に店に入った観光客らしいカップルが、 「ここには、おそばはないの?」  と、聞き、店の人に、 「うちは、ほうとうの店ですよ」  と、叱られている。どうやら、山梨へ来て、そばなどを注文するのは、ヤボということなのだろう。  ほうとうは、煮込むせいか、とろりとして、美味かった。それに、野菜を沢山入れるから、今の若者もヘルシイと思うだろう。  遅い昼食のあとは、今日は家庭サービスと最初から覚悟しているから、タクシーに乗り、笛吹川を見たり、勝沼のワイン工場を見学したりのあと、石和温泉のホテル「かげつ」に入った。  ワイン工場では退屈して、機嫌の悪かったマユミだったが、ホテルの池に大きな鯉が群れているのを見て、元気を回復し、フロントでエサを手に入れて、鯉にやり始めた。  年に何回も来られない旅行ということで、亀井は、今日は、奮発した。  案内された部屋も、亀井が仕事の時には、絶対に泊らないような豪華なものである。一日目は、亀井らしくもなく、家族サービスに努め、二日目の一月十八日は、朝食のあとひとりで釣りに行かせて貰った。  レンタカーを借り、まず、河口湖に出かけた。今日も良く晴れて、寒く、富士山がよく見える。  最近は、何処へ行っても、道路がいい。それに、東京に比べれば、驚くほど車が少いから、すいすい走ることが出来た。  湖面が見えてくると同時に、狭い部分を結ぶ河口湖大橋が前方に見えた。低い橋で、トラックが一台、二台と渡っているのが遠く見える。  湖は、静まり返っていた。夏になれば、ボートやサーフィンや水上スキーで賑わうのだろうが、今は、一隻のボートも出ていなかった。  貸ボートは陸にあげられ、遊覧船は桟橋につながれているが、乗っている観光客の姿もなく、事務所の掲示には、次の出航時間が、空欄になっていた。  湖岸の土産物店は、開いていたが、買っている客の姿はなかった。  ただ、釣り人が五、六人、いるだけである。  亀井も、入場料を払って、釣りを始めた。ブラック・バスを狙《ねら》うのは、生れて初めてである。一応、本で読んで来た通りに、ポイントを探して歩き、リール竿を振った。  冬の陽光の中で、黄色い糸が光りながら、大きく輪を描く。  ブラック・バスは、当りが強烈だというので、期待して来たのだが、いっこうに当りが来ない。寒いせいなのか、持って来た擬似餌が悪いのか。  昼になって、亀井は、湖岸のレストランでラーメンとチャーハンの昼食を腹に入れ、食後は、隣りの西湖《さいこ》に足を延ばしてみた。  車が、西湖に近づくと、道路の両側の林が深くなってくる。近くに、青木ヶ原の樹海が広がっているからである。  河口湖も静かだったが、西湖はそれに輪をかけて、ひっそりしていた。  河口湖の方は、湖岸に、ホテル、レストラン、土産物店などが並んでいたが、こちらは、それらしきものも眼につかない。国道からも離れている。  近くの林の中には、キャンプ用の小さなロッジが、いくつか並んでいたが、冬の盛りの今は、人の気配はない。  岸辺に、亀井は、車を止めた。 「ボート繋留場」の看板が立っていたが、肝心のボートは、五、六隻、裏返しにして並べてある。  車も、たまにしかやって来ないから、静かだった。水は、河口湖よりもきれいである。  なにか、うす気味の悪い静けさだった。  亀井は、釣具を取り出し、煙草をくわえながら、竿を振った。周囲を見廻しても、釣り人は、亀井一人である。というより、人の姿が、他にないのだ。  竿を振る音だけが、やけに大きく聞こえる。他には風音しか聞こえない。  陽がかげって来て、湖面がうす暗くなると、亀井は、少しばかり、うす気味悪くなってきた。  相手が人間なら、どんなに凶暴でも怖くはないのだが、亀井は、東北の生れ育ちのせいか、物《もの》の怪《け》が怖い。  それに、身体が冷えてきた。この辺りは標高九百メートル近いが、今の季節、寒くて当り前だった。 (あと、五、六分で、帰ることにしよう)  と、亀井は、自分にいい聞かせた。 (あと一投)  と思って投げたとき、突然、強い当りがきた。  あわてて、リールを巻く。重い手応え。  だが、重いだけで、強烈な引っ張りがない。 (参ったな。何かに、引っかけてしまったらしい)  と、亀井は、舌打ちした。一匹も釣れないどころか、下手をすると、大事な擬似餌も失いかねない。  亀井は、そろそろと、糸をたぐった。  何か、黒いものが、鉤《はり》に引っかかっているのが見えた。  魚だった。全長七十センチほどの鯉である。 (魚だったのか?)  本当は、喜ばなければならない筈なのに、亀井は、何となく裏切られたような、妙な気分で、足先に引き寄せた鯉を眺めた。  鉤は、その鯉の背びれの部分に引っかかっている。  鉤が引っかかった時の手応えは覚えているが、そのあと、強烈な引きは全くなかったし、あとはただ重いだけだった。 (死んだ魚を釣ってしまったんだ)  と、思った。  水が冷たいのと、死んで間がないとみえて、腐っている感じはない。  それでも、持って帰る気はなくて、鉤を外して、竿をしまっていると、突然、白と黒のまだらな野良猫が、どこからともなく飛び出してきて、鯉に食いついた。  くわえて逃げようとするのだが、重過ぎて運べない。  そのくせ、亀井が怖いらしく、尻込みしながら、魚の周囲をうろついている。 「わかったよ」  と、亀井は、その野良猫に、笑いながら、声をかけた。 「おれは帰るから、ゆっくり食べるんだ」  亀井は、さっさとレンタカーに戻り、運転席に腰を下し、ドアを閉めた。  エンジンをかけながら、猫の方を見ると、安心したように魚の傍に座り込んで、食べ始めている。 「よし、よし」  と、肯《うなず》いてから、亀井は、なるべく静かに車を発進させた。  わざと遠廻りで、西湖から離れ、そのあとはスピードをあげて、石和に戻った。  妻の公子の方は、彼が釣りに行っている間、マユミを連れて買物に歩いていて、りんごを宅配で自宅に送ったり、名産のワインを買ったりしてご機嫌だった。  魚は釣れなかったが、妻や子供の喜んでいる顔を見ると、亀井は来てよかったと思った。 「健一も、連れて来られると、よかったんですけどねえ」  と、夕食の時に、公子がいった。 「夏休みになったら、何とか考えるさ」  と、亀井は、いった。  十八日、帰宅したのは、深夜になってからである。  翌十九日からは、また、凶悪事件を追っての捜査に走り廻った。  三日たった二十一日のことだった。  一つの事件が解決して、ほっとしているところへ、若い刑事が、ニヤニヤ笑いながら、 「カメさんに、若い女性のご面会ですよ」  と、声をかけてきた。 「若い女性?」 「しかも、なかなかの美人です」 「へえ。カメさんも隅におけないね」  と、十津川が、からかい気味に、亀井を見る。 「ぜんぜん、思い当ることはありませんよ」  と、亀井は十津川にいってから、立ち上り、応接室に歩いて行った。  ドアを開けると、座っていた若い女が、黙ってこちらを見た。  二十四、五歳だろう。全く、記憶にない顔だった。 「捜査一課の亀井ですが」  と、声をかけると、女はかたい表情で、ハンドバッグから名刺を取り出して、亀井の前においた。  〈JAPC 新倉みゆき〉  と、印刷されている。 「新倉みゆきさん──?」 「はい」 「JAPCって、何ですか?」 「日本にいる動物を守る会です」 「はあ──」  と、いったが、亀井はまだ、わけがわからずにいる。 「私たちの協会は、全国に支部がおかれています」 「なるほど」 「亀井さんは動物について、どんなお考えをお持ちですか?」  と、新倉みゆきは、切口上できいた。 「どんなといわれても、動物は、好きですよ。現に、うちでは、猫を一匹飼っています。ぜいたくはさせていませんが、可愛がっているつもりです」 「猫を──」 「雑種ですがね」 「野良猫を、どう思います?」 「ノラ──ですか。どう思うといわれてもねえ。金と場所があれば、全部の野良猫を引き取って、飼ってやりたいですがねえ」 「では、野良猫だから、殺してもいいとは、お考えにはなりませんの?」 「そんなことは、考えませんよ」 「でも、亀井さんは先日、西湖で、野良猫を殺したでしょう? いいわけは、駄目です。証人がいるんですから」  と、相手は、いう。  亀井は、まだ、何が何なのかわからなくて、 「どうも、あなたのいうことが、よくわからないのだが──」 「十八日に、西湖に行ったことは、間違いありませんわね?」 「ええ。行きましたよ。釣りにね」 「レンタカーを借りて、行かれましたね?」 「ええ。家族連れで行ったんですよ。私は、石和でレンタカーを借りて、ひとりで釣りに行った。河口湖から西湖にかけてね。ぜんぜん釣れなかったが」 「そのうっぷんを、野良猫を殺すことで、晴らしたんですか?」  と、新倉みゆきが、大きな瞳で亀井を睨《にら》んだ。 「そんなことはしていませんよ」 「白ばっくれるんですか? たまたま、うちの会員が、目撃したんですよ。あなたが、毒入りの魚を野良猫に与えて、ニヤニヤ笑ってたのを」 「毒入りの魚?」 「ええ。それを食べて、猫は死にました。野良猫だから、殺してもいいとは、いえませんわ。しかも、殺したのが、警視庁の現職の刑事さんだということが、許せないんです。だから、こうして、抗議に来たんです」      2 「ちょっと、待って下さいよ」  と、亀井は、相手の話を手で制して、 「思い出しました。確かに、野良猫に魚をやりました。あの時、鉤に、死んだ大きな鯉が引っかかりましてね。引き上げたら、白と黒のまだらな野良猫が、欲しそうにしていた。だから、やったんです。毒だのとかいうのは、私は、全く、知りませんよ」  と、力をこめて、いった。 「でも、目撃していた会員の人は、あなたがニヤニヤ笑いながら、猫にその魚をやっていたというんです」  と、みゆきは、いった。 「ニヤニヤかどうかは忘れましたが、私がいたんじゃ食べにくいと思って、ゆっくり食べろよと、ひとり言みたいにいって、車で帰ったのは覚えていますよ」  と、亀井は、いった。 「毒入りの魚を、与えたんじゃないんですか?」 「どうして、わざわざ、富士五湖の西湖まで出かけて、野良猫を殺さなければいけないんです? 野良猫を殺したければ、東京でやっていますよ。東京にだって、野良猫はいくらでもいますからね」  と、亀井は、いった。  みゆきは、考え込んでしまった。  動物虐待を抗議しようと勢い込んでやって来たのが、ちょっとおかしな具合になって来たからだろう。 「本当に、あの日に釣った魚だったんですか?」  と、みゆきは、きいた。 「そうです。あの日は、ブラック・バスを釣りに行ったんですが、全く、釣れませんでしたよ。最後に釣れたと思ったら、死んだ鯉だったんです。背びれのところに鉤が引っかかって、あがったんですよ。だから、野良猫にやって、帰ったんですがね」 「そうですか。本当だったら、申しわけありませんでした。最近、野良猫なんかを意味もなく殺す人がいますので、神経質になっているものですから」  と、みゆきは、いった。  彼女が、立ち上って帰ろうとするのを、亀井は止めて、 「あの魚を食べた猫が、毒死したというのは間違いないんですか?」  と、改まった口調で、きいた。 「ええ。たまたまその猫が死ぬのを見ていた山梨の会員が、猫を病院に運んで行って、診《み》て貰ったんです。そうしたら、青酸中毒だといわれたと、いっていましたわ」 「青酸中毒?」 「ええ」 「すると、その青酸は、あの鯉の体内にあったということになりますね」 「ええ」 「面白いな」  と、亀井は、呟《つぶや》いた。  それを、みゆきが聞きとがめて、 「え? 面白い──ですか?」  と、非難するように、亀井を見つめた。  亀井は、あわてて、 「いや、刑事的ないい方で申しわけない。これは、事件じゃないかと、思ったんです」 「でも、死んだのは、猫ですわ。人間が殺されなければ、警察は動かないんじゃありませんの?」 「その通りですが、いろいろと考えられるんです。このケースは」  と、亀井は、いった。 「どんな風にですか?」  と、みゆきが、きく。 「犯人は、西湖に青酸をばら撒いて、あの鯉を殺したんじゃない。もしそうだったら、他に沢山の魚が死んで、浮いていなければいけませんからね。そんなことは、あの日の前に、西湖に起きてはいなかったんでしょう?」 「ええ。聞いていませんわ」 「だとすると、あの鯉は別の場所で、青酸を飲ませて、殺したことになりますよ」 「ええ」 「殺した鯉は、犯人が、あの湖に投げ捨てたことになる。それが、たまたま、私の竿に引っかかった。犯人は、なぜ、そんなことをしたんですかねえ?」  と、亀井は、きいた。 「さあ、私にはわかりませんわ」  と、みゆきは、首を振った。  彼女にとって、猫が死んだということが大事なので、鯉が殺されたものかどうかには、あまり興味がないのだろう。 「あなたは、魚を食べるでしょう?」  と、亀井は、いった。 「ええ。好きですから」 「以前、水銀汚染された魚を食べて、人間が障害を起こしたことがある」 「ええ。知っています」 「もし、あの鯉を間違えて人間が食べていたら、今頃、青酸中毒で死んでいた筈ですよ」 「ええ」 「だが、誰かを殺そうとして、そんなことをしたとは思えない。もしそうなら、その鯉を湖に放り込んで、沈めてしまうというのは、どうみても下手なやり方ですよ。たまたま私が、下手な釣りで引っかけて──」 「あの──」 「何ですか?」 「猫を殺したのが、亀井さんではないとわかったので、もう失礼しますわ」  と、みゆきは、いった。 「魚の話は、面白くありませんか?」 「それは、次の機会に、ゆっくり伺いますわ」  と、みゆきはいい、立ち上ってしまった。      3  亀井が、自分の席に戻ると、十津川が、 「美人の娘さんとは、何の話をして来たの?」  と、声をかけた。 「危うく、動物虐待で、訴えられるところでした」  と、亀井はいい、新倉みゆきの名刺を十津川に渡し、野良猫の死んだことを話した。 「それで、彼女は、納得して帰ったのかね?」 「そこのところははっきりしませんが、私が鯉の話を始めたら、興味がないらしく、帰って行きました。鯉は、動物じゃないということなんでしょうね」  と、亀井はちょっと、皮肉ないい方をした。 「カメさんは、どう思うんだ?」  と、十津川は、きいた。 「鯉を毒殺するのが、動物愛護かどうかですか?」  と、亀井がきく。十津川は苦笑して、 「そうじゃないよ。鯉が、なぜ、青酸で殺されていたかということだ」  と、いった。 「私も、それに、興味を持ったんです。どんな人間が、何のために、そんなことをしたのかということにです」  と、亀井は、いった。 「どんなことが、考えられるかね?」  と、十津川が、あらためてきいた。 「そうですねえ。いろいろなケースが、考えられます。実験かも知れないし、脅しかも知れない」 「実験というと?」 「青酸で、魚を殺す実験です。どのくらいの量で、どのくらいの時間で死ぬのか、その実験です」 「脅しというのは?」  と、十津川は、続けてきいた。 「ある人間が、富士五湖に毒物を投げ入れるぞといって、脅したとします。脅す相手は、県でもいい、湖で儲けている会社でもいい。金を要求し、払わなければ湖に毒を流して、魚も、水も、食べられず、飲めなくすると、脅すわけです」 「そのため、鯉に青酸を注入して、脅すか?」 「ええ」 「しかし、あの鯉は、西湖に放り込んであったんだろう? それでは、脅しにはならないな」 「脅しに使ったあと、西湖に投げ捨てたのかも知れません」  と、亀井は、いった。 「しかしねえ、カメさん。脅しに使ったあとということは、事件はもう終ったということだろう?」 「そうです」 「もしそうなら、何かそれらしい噂が聞こえてくるんじゃないかね? 何しろ湖に毒を入れるぞといって脅したものなら、大変なことだから、今頃、マスコミが飛びついているよ。それに、こういう事件は、当事者が秘密にしていても、何処からか洩《も》れてくるものだ。今のところ、それらしい噂が全く聞かれないのは、なかったとみていいんじゃないかね」  と、十津川は、いった。 「そうなると、実験の方ですかね」  と、亀井は、いった。 「どちらが、可能性があるかといえば、私も実験の方だと思うよ」  と、十津川は、いった。  二人の話を聞いていた若い西本刑事が、口を挟んで、 「それ、怖いんじゃありませんか?」  と、いった。  十津川は、西本に眼を向けて、 「怖いって、どう怖いんだ?」 「感覚的なものかも知れませんが、鯉に青酸液を注入している奴を想像すると、怖いですよ」  と、西本は、いった。 「鯉に、青酸液を注射か?」 「違いますか?」  と、西本が、きいた。 「それは、違うと思うね」  と、亀井が、いった。 「なぜですか?」 「鯉の身体に青酸液を注入したら、変色するんじゃないか。だが、私があの鯉を手に取ったときに、そんな感じはなかったよ。だから私は、野良猫に、あの鯉を与えたんだ」 「しかし、鯉は、青酸死していたわけでしょう? だから、それを食べた猫が、青酸中毒死した」  西本が、納得できないという顔で、亀井にいった。 「ああ、そうだ」 「それなら鯉に、注射したかも知れないじゃありませんか」  と、西本は、いった。 「ちょっと、待ちたまえ」  と、十津川は、二人の間に割って入って、 「問題の鯉に、どうやって、青酸を入れたのか、大事なことかも知れないから、じっくりと考えようじゃないか」 「方法がですか?」  と、西本が、きいた。 「そうだよ。もちろん、野良猫が死んだだけで終れば、どうでもいいことかも知れないがね」  と、十津川は、いった。  しかし、猫が死んだだけでは、終らなかったのである。      4  西湖で釣りあげた死んだ鯉に、青酸が入っていたらしいということで、湖の入口に掲示板が立てられた。 [#1字下げ]〈この湖で、死んだ魚を拾われても、食べないようにして下さい。危険です。その場合は、すぐ、警察に届け出て下さい。 [#地付き]警察署〉  掲示板に書かれた文字である。  だが、皮肉なことに、この掲示板が立ったその日に、死者が出てしまった。  西湖の周囲には、小さなバンガローが、いくつも並んでいる。  夏の季節になると、若者たちがこのバンガローを借り、湖で釣りをしたり、水上スキーを楽しんだりするのだが、もちろん、寒い今の季節は、借りる人はいない。  ただ、ホームレスの老人が一人、バンガローの一つに、一週間前から住みついていたのである。  年齢は、六十五歳くらい。毛布や、ローソク、コンロ、などを持ち込んでいた。  その日、彼は、湖岸に鯉の死骸が打ちあげられているのを見つけて、コンロで焼いて食べ、死んだのである。  林の中のバンガローの傍で死んでいたし、観光客のほとんど来ない時なので、発見は大幅におくれた。  食べ残しの鯉は、コンロの上で、黒焦げになっていた。  老人の死体は、甲府の大学病院に運ばれて、司法解剖されることになった。  その結果、青酸中毒死であることが、確認された。  死亡推定時刻は、午前十時から十一時の間となったが、これはあまり意味がなかった。ただ、発見が五時間から六時間おくれたことが、わかっただけのことである。  甲府警察署に、捜査本部が置かれた。  捜査を指揮するのは、三十五歳の佐伯警部である。  佐伯は、一月十八日に、同じ西湖で、警視庁の亀井刑事が青酸死した鯉を釣りあげ、それを野良猫に与えたことを思い出し、警視庁に連絡した。 「できれば亀井刑事に、こちらに来て助言を頂きたいのですが」  と、佐伯は、いった。  電話口に、亀井本人が出て、 「すぐ、伺います。私も、あのことが気になっていたんですよ」  と、いった。  亀井は、その日のうちに甲府警察署に顔を出した。  亀井を加えて、捜査会議が開かれた。  本部長が、まず、あいさつした。 「今回の事件は殺人事件ではあるが、特異な事件でもある。犯人は、被害者の老人を殺そうとして殺したわけではないからだ。犯人は多分、いたずらで、鯉を青酸で殺して、西湖に投げ捨てた。それを、たまたま被害者が拾い、焼いて食べたために、死んでしまったからだ。被害者の身元の確認もしなければならないが、身元がわかっても、そのことと犯人とが結びつくとは思わない。それを考えると、特異な事件と、いわざるを得ないんだ」  と、本部長は、いった。  続いて、亀井が促されて、西湖に来たときのことを、話した。  ブラック・バスを釣りに来たのだが、一匹も釣れず、最後に鉤に引っかかったのが、死んだ鯉だった。  仕方がないので、寄ってきた野良猫にやって帰宅したが、あとでその猫が青酸中毒死したと、知らされた。 「動物愛護のお嬢さんに、さんざん叱られましたよ」  と、亀井は、笑ってから、 「私の上役の十津川警部とこの件で話し合った時、どうやって鯉に青酸を与えたかが、問題だということになりました」 「どういうことですか?」  と、佐伯が、きいた。 「青酸を使って、鯉を殺す方法です。注射器を使って、青酸液を鯉の身体に注入してもいいわけですが、これだと多分、鯉は変色して、私も変だなと気付いたと思うのです」  と、亀井は、いった。 「なぜ、方法が大事だと、あなたと十津川さんは思われたんですか?」  と、佐伯が、きいた。 「すでに、西湖で、青酸死した二匹の鯉が見つかったわけです。三匹目、四匹目の鯉が、西湖の水中に、沈んでいる可能性もあります。とすると、犯人は、何かの実験をしたのではないかと、思うのです」 「何の実験ですか?」  と、佐伯が、きく。 「佐伯警部だって、いろいろと、考えておられるんでしょう?」 「例えば、人間を殺すために、鯉を使っての実験ですか?」  と、佐伯が、いった。 「それが、一番怖いことです」 「しかし、鯉を使って、何の実験をするわけですか? 青酸を使えば、人間を簡単に殺せることは、別に実験をしなくても、わかっているはずです。それに、人間と鯉では、致死量が違うから、実験にならないんじゃありませんかねえ」  と、佐伯は、いった。 「確かに、そうです。だから、今もいったように、注射器を使って、青酸液を注入するような実験なんかは、何の役にも立たんでしょう」 「じゃあ、どんな実験が──?」 「それを、ここに来る中央線の中で、考えて来ました。例えば、こういう実験は、どうでしょうか。鯉には歯がないから、エサを呑み込む。それを利用した実験なんかは、どうだろうか。青酸をカプセルに入れて、鯉に食べさせる。カプセルは呑み込まれて、鯉の体内に入ってしまう。何秒たてば、カプセルが溶けて、青酸が浸《し》み出して、鯉が死ぬかがわかるんじゃありませんか。カプセルの代りに、菓子を使ってもいいし、さまざまな実験が、出来ると思いますよ」  と、亀井は、いった。 「もし、実験説が正しいとすると、それが人体に向けられるのを、絶対に防がなければいかんな」  と、本部長が、いった。  だが、鯉を殺して西湖で捨てている犯人の身元がつかめなければ、狙われる人間も、わかってこないのだ。 「とにかく、西湖を中心として、聞き込みをやりましょう。誰かが、死んだ鯉を西湖に捨てている奴を、見たかも知れませんからね」  と、佐伯は、本部長に向って、いった。  刑事が、動員された。  亀井も、この聞き込みを、手伝うことにした。  相変らず、湖岸は風が強く、寒い。  ただ、今度の事件のことが、新聞、テレビで報道されたせいか、怖いもの見たさのヤジ馬が車でやって来ていた。  彼等は、車から降りて、湖岸に立ち、水の中をのぞき込んでは、 「この水も、飲めないんじゃないの?」  とか、 「鯉に恨みを持ってる奴の仕業じゃないのか」  と、無責任な会話を、交わしていた。  彼等の話を聞いても仕方がない。亀井や県警の刑事たちは、湖岸の土産物店の従業員や、漁協の人たち、それに、富士五湖にブラック・バスを釣りに来ている常連などに、話を聞いた。  だが、西湖に、鯉を捨てに来た人間を見たという証言は、なかなか耳に入って来なかった。  それも、無理はないだろう。犯人だって、他人《ひと》に見られないように、問題の鯉を西湖に捨てているだろうからである。  目撃者は見つからなかったが、湖岸や山の中腹に建てられたバンガローの一つから、面白い発見があった。  ホームレスの老人が入り込んでいたことで、他のバンガローを調べていた途中で、わかったことである。  そのバンガローは、湖岸にあって、三畳ほどの広さだが、中がきれいに掃除されていた。刑事たちはまず、そのことに関心を持った。  この季節、バンガローを借りる者はいないから、どうしても板の間にほこりが溜ったりするのだが、その一棟だけが、きれいに掃除されていたのである。  ただ、板の間に、直径九十センチほどの茶色い、何かの痕と思われる輪ができていた。  鑑識が呼ばれて、このバンガローのくわしい写真を撮った。  また、バンガローの近くに、品川ナンバーのライトバンが駐《と》めてあるのを、土産物店の従業員の一人が、目撃していることがわかった。 「釣りに来ているのかと思ったんですが、湖岸にはそれらしい人はいませんでしたね」  と、その従業員は、いった。  しかし、その車が青っぽい中型のライトバンとわかっても、目撃者は車のナンバーまでは覚えていなかった。ただ、品川ナンバーというだけである。  しかし、怪しいということでは、このライトバンと、きれいに掃除されたバンガローしかなかった。  県警は、この二つに絞って、徹底的に調べることにした。  車の方は、どうやらトヨタのライトバンらしいのだが、それ以上、車種の限定は出来なかった。目撃した人間が、あまり車に興味がない男だったからである。      5  バンガローは、チリ一つ見逃さずに、調べられた。  その結果、いくつかのことが、わかってきた。  第一は、板の間の板と板のわずかの隙間から、うすい、鈍く光るものが見つかったので、それをピンセットでつまみあげたところ、魚の鱗《うろこ》とわかった。  また、板の間についていた円い輪の痕は、どうやら、円いプラスチックの容器を長時間同じ場所に置いておいた、その底が濡《ぬ》れていたので、痕がついてしまったのではないかということになった。  この二つのことから想像されることは、一つしかなかった。  問題のバンガローを無断で使用した人間は、板の間に濡れた直径九十センチくらいの容器を置き、魚を扱っていたのではないかということだった。  見つかった一片の鱗は、魚の専門家に見せたところ、体長三十センチから四十センチの鯉に違いないと、わかった。  その知らせに、県警は、小躍りした。  更に、青いライトバンを目撃した土産物店の従業員は、それを一月十二日か一月十三日と、証言した。  亀井が、青酸死した鯉を引っかけた、六、七日前である。 「本ボシらしい」  と、佐伯警部は、眼を光らせた。  あらためて鑑識に、バンガロー内の指紋の検出を依頼した。  だが、これはという指紋は、検出されなかった。犯人が室内を掃除して消えたのは、指紋を拭き取るためもあったようだった。  その人物が、何時間、バンガローにいたかは、わからない。  だがともかく、このバンガローで「実験」をしていたことは、間違いないと思われる。  佐伯も亀井も、同じように疑問を持った。  東京の人間が、なぜ、わざわざ山梨の西湖まで来て、怪しげな「実験」をやったかということである。なぜ、自宅でやらなかったのか。  そのことが、捜査会議でも、議論になった。  いくつかの考えが、持ち出された。  犯人の自宅が狭いので、「実験」が出来なかったのではないか。だから、人のいない西湖まで、わざわざやって来たのではないか。  自宅近くでは鯉が入手できず、富士五湖の近くまで来て購入し、それを、西湖のバンガローを使って「実験」したのではないか。  前に、西湖のバンガローを使ったことがあるので、「実験」しようと思ったとき、西湖を思い出したのではないか。  こうした意見である。  この中から、調査できるものに、当ってみることになった。  犯人が、東京の何処に住んでいるかわからない以上、住居が狭いかどうか、調べることは不可能である。  前に、西湖に来たかどうかも、今の段階ではわかりようがない。  そこで、富士五湖周辺で、一月十二日か十三日に、鯉を買った人間がいたかどうかを、調べることになった。  これにも、刑事たちが動員された。周辺の派出所の警官もである。  その結果、河口湖近くで、鯉、鮒などの淡水魚を売り捌《さば》いている業者が、一月十三日に、鯉を一人の男に十五匹、売っていることがわかった。  佐伯は、その業者のところに急行し、亀井も同行させてもらった。  〈鯉・鮒など、売ります〉  という大きな看板が出ていた。国道から、ちょっと脇へ入った場所だった。  刑事に応対したのは、この店の主人だという六十五、六歳の吉田という男である。  店の裏には、大きな養殖池が見えた。 「その客は、三十歳なかばの男の人ですよ」  と、吉田は、いった。 「その男が、十五匹の鯉を買っていったんですね?」  と、佐伯は、確認するようにきいた。 「そうです。鯉を買いたいといって、一匹ずつ、生きの良さを確かめてから、お買いになりましたよ」 「同じ大きさの鯉ですか?」 「それが、三十センチくらいから、七十センチくらいまで、大きさの違う鯉をね。ちょっと変った客だなと思いましたよ」  と、吉田は、いう。 「なぜですか?」  と、佐伯は、きいた。 「鯉料理の店だって、鯉を自宅の池に放したい人だって、たいていは同じ大きさのものを揃《そろ》えたいと思うからですよ」 「なるほど。問題の男ですが、車でここへ来たんですか?」  と、佐伯は、きいた。 「ええ。青いライトバンでね」 「ひとりで、来ましたか?」 「ええ。車に、わたしが運びましたが、ひとりでしたよ。十五匹をポリ袋に入れ、酸素を注入して、車にのせたんです」  と、吉田は、いった。 「十五匹の鯉を、何に使うと、その男はいっていました?」 「自宅の池で飼うんだと、いっていましたがね。わたしは、信じませんでしたね。今もいったように、自宅の池で観賞用に飼うのなら、大きさを揃えますからね。だから、河口湖に釣りに来て、全く釣れなかったので、買って帰って、家族に見せたいのかと思いましたよ。しかし、来たのが午後一時で、まだ何時間も釣れるんですからね。それも、おかしいなと思いましたね」  と、吉田は、したり顔でいった。  警察は、吉田の証言をもとに、男のモンタージュを作ることになった。  モンタージュは、二時間で出来あがった。  角張った顔で、眉が太く、意志の強そうな顔である。  また、吉田の証言で、この男は身長百七十五センチくらいで、鯉を買いに来たときは、黒い革のハーフコートを着て、毛皮の帽子をかぶっていたという。  しかし、この店でも、車のナンバーは記憶していなかった。  亀井は、このモンタージュのコピーをもらって、いったん東京の警視庁に戻った。捜査一課では、モンタージュが黒板に貼られ、十津川警部たちがそれに見入った。 「問題は、二つあるね」  と、十津川は、モンタージュに眼をやりながら、 「この男が、何を考えているのかということが、まずあるね。次は、東京の男ということで、その何かを東京でやろうとしているんじゃないか、ということだね」 「鯉で実験しておいて、次に人間に、応用する気じゃありませんか」  と、西本が、いった。 「殺人か?」 「そうです。青酸を使って殺すんです」  と、西本は、いった。 「多分この犯人は、さまざまなカプセルを工夫して、それが溶ける時間を、冷静に測っていたんじゃないかと思います。鯉の大きさも違えてですよ。十五匹の大きさの違う鯉を購入していますからね」  と、亀井は、いった。 「この男が、人間を殺す前に、何とか見つけ出したいね」  と、十津川は、いった。  モンタージュで、顔は、わかっている。  年齢は、三十五、六歳。身長百七十五センチくらい。  青い、中型のライトバンを所有している。品川ナンバーだが、ナンバー自体は不明。  鯉を買いに寄った時の服装は、黒の革コートに、毛皮の帽子だが、それに捉われると、妙な先入観を与えてしまうだろう。 「マスコミに協力して貰いますか?」  と、日下刑事が、いった。 「このモンタージュをのせて貰い、市民からの情報提供を、待つということか?」  十津川が、きいた。 「そうです。われわれが、この男を探すといっても、東京は、あまりにも広いですからね。千二百万もの人間がいます。住所も、名前もわからないのでは、ほとんど、探しようがありません。とすると、新聞、テレビの協力を得た方が早いと思います」  と、日下は、いう。 「しかし、どんな形で、マスコミに協力して貰うんだ? 人権という問題があるからね。まさか、このモンタージュをのせて貰って、この男が、人殺しをしそうだから、知っている人は、警察に協力して、電話して欲しいというのかね? そんなことをすれば、人権侵害で訴えられるよ。まだ、彼は、人を殺してないんだからね」  と、十津川は、いった。 「でも、ホームレスの男を殺しています」  日下が、反撥するように、いった。 「それだって、厳密にいえば、モンタージュの男が、西湖に捨てた鯉が原因とは判定できないんだ。鯉に印がついているわけじゃないからね」  と、十津川は、いった。 「しかし、警部、もう間違いないでしょう。モンタージュの男が、青酸を呑ませて殺した鯉で、ホームレスの男が、死んだということは」 「われわれが、間違いないといったって、それは通用しないんだよ」  と、亀井が、笑いながら、日下に、いった。 「通用しませんかね?」 「モンタージュの男が出て来て、私は、何もしていないと開き直られたら、われわれには、何も出来んだろう? 彼が、鯉に、青酸を与えた犯人で、それをたまたま、西湖のバンガローに住みついたホームレスの男が食べて死んだということを、証明するのは、今の段階では非常に難しいよ」 「じゃあ、マスコミに協力を頼むことは断念ですか?」  と、日下はきいた。  十津川は、それに対して、 「いや、どんな形で、協力要請ができるか、これから考えたいとは思っている」  と、答えた。  十津川としても、自力で、問題の男を見つけ出したかったのだ。  殺人事件で、時どき、マスコミの力を借りることがある。  被害者の身元がわからない時には、市民からの情報を求めるのだが、それは、成功する確率が高い。  しかし、事件の容疑者についての協力要請の場合は、効果は芳しくなかった。  容疑者自身が、名乗り出てくる気がないし、その人物を知っている人たちも、殺人事件の容疑者となると、警察への通報をためらうからだろう。  その人物を知らない人たちが、無責任に、電話してくることが、多いのだ。どこそこのホテルのフロント係が、そっくりだとか、自分の住んでいるマンションの何号室の男が、犯人らしいとかである。  ただ単に、その人間が嫌いだからといって、電話してきたりもするのだ。そうなると、かえって、十津川たちの捜査の邪魔になってしまうのだ。  だから、出来れば、警察の力だけで、男を見つけ出したい。  しかし、可能だろうか?  十津川はモンタージュを都内の各警察署、派出所などに送り、この顔で、青のライトバンを持つ男が、近くにいないかどうか、調べさせることになった。  全パトカーにも品川ナンバーで青のライトバンを見たら、運転手が、モンタージュに似ていないかどうか調べることという指示も、出した。  その一方、十津川は、本多一課長や、三上刑事部長にマスコミへの協力要請の方法を相談したが、結局、結論が出なかった。  十津川は、毎日、新聞を見るのが、怖くなってしまった。いつ、何処で、青酸中毒死の犠牲者が出るか、わからなかったからである。  一週間たった。  だが、モンタージュの男について、まだ、何の情報も、つかめなかった。      6  十日目の夕方、JR大井町駅の近くを自転車でパトロールしていた警官が、青いトヨタのライトバンが、とまっているのを眼にした。  最初、その車が気になったのは、そこが駐車禁止の場所だったからである。 (注意しなければいけないな)  と思って、自転車から降り、その車に近づいた時、手配されている青いライトバンであることが、気になった。  運転席をのぞき込んでいると、三十五、六歳の男が、あわてて駈けつけて、 「すいません。すぐ、動かしますよ」  といい、運転席に乗り込んだ。  警官は、緊張した顔で、 「免許証を見せて下さい」  と、いった。  男は、愛想笑いを浮べて、 「そんなかたいことはいわないで下さいよ。用があって、五、六分しか、とめてなかったんだから」 「とにかく、免許証を見せて下さい」 「ヤボはいいなさんな」 「免許証!」  と、警官はドアに手をかけて、大きな声を出した。  とたんに、車が、急発進した。  警官ははねとばされ、舗道に転倒した。が、転がったまま、走り去って行くライトバンのナンバープレートを見つめた。  この寺内という三十歳の警官の報告に、十津川たちは緊張した。  すぐ、十津川と亀井が、この寺内巡査に会いに、大井町に急行した。  駅の傍の派出所で、会う。寺内は、在番していた。 「手配の青いライトバンだったので、免許証の提示を求めたところ、いきなりはね飛ばされました」 「この男だったかね?」  と、亀井が、例のモンタージュを見せた。 「よく似ています」  と、寺内は、いった。  彼が覚えていたナンバーで、今、所有者を割り出している。が、最初の二桁しか覚えておらず、割り出しは難航しているらしい。  十津川と亀井は、寺内に、問題のライトバンがとまっていた場所に案内して貰った。  商店街の一角だった。 「男が、何処から出て来たか、わかるかね?」  と、十津川が、きいた。 「それが、運転席をのぞき込んでいた時、いきなり現われたので、残念ですが、どこから出て来たのか、わからないのです」  と、寺内巡査は、申しわけなさそうにいった。  しかし、この商店街のどこかから出て来たことは、間違いない。二人は寺内を帰したあと、商店街の一軒一軒を、モンタージュを見せて聞いて廻ることにした。  そば屋、肉店、カメラ店、煙草店、菓子店、喫茶店と、いろいろな店が並んでいる。  なかなか、反応がなかったが、「ラ・ムール」という小さな喫茶店のマスターが、 「ああ、この人なら、来てましたよ」  と、肯いた。  手掛りがあったと、十津川はほっとしながら、 「常連さんですか?」  と、きいた。 「いや、初めてのお客でしたね」 「ひとりで、来たんですか?」 「ここで、女の人と会ったんですよ」  と、マスターはいう。 「どんな女性ですか?」 「四十五、六歳の方でしたよ。奥の窓際の席で、二人で何か熱心に話してましたよ。女性が先に出て行って、男の人は残って、煙草を吸ってたんです。わたしが何気なく外を見たら、ライトバンを、お巡りさんがのぞき込んでいるじゃありませんか。あッ、駐車違反だぞと思って、その男の人に、あんたの車じゃないのっていったら、あわてて、飛び出して行ったんです」  と、マスターは、いった。 「相手の女の人だけど、顔見知りじゃなかったの?」  と、亀井が、きいた。 「常連さんじゃありません。しかし、何処かで見たような顔なんですよ」  と、マスターはいって、 「思い出して下さいよ」  と、亀井は、いった。  マスターは、眼をつぶって、思い出そうと努力していたが、 「もう少し時間を下さい」 「思い出したら、大井町署へ連絡して下さい。われわれは、しばらく大井町署にいますから」  と、十津川は、いった。  二人は大井町署に行き、そこでプレートナンバーからの割り出しの結果を待った。  東京陸運局の協力を得てのことだったが、やはり二桁だけの数字では、簡単に車の所有者に辿《たど》りつけないという返事に終ってしまった。  だが、その代りのように、喫茶店「ラ・ムール」のマスターが思い出したと、連絡して来てくれた。  すぐ、十津川と亀井が、飛んで行った。  マスターは、興奮した顔で、 「前に一回、来た人だったんですよ。二ヶ月前だったかな。生命保険の勧誘に来たんです」  と、いった。 「保険会社の人?」 「そうです。その時貰った名刺が見つかりました」  と、マスターはいい、隅の折れてしまった名刺を見せてくれた。  〈N生命 大井町支店 加藤ひろ子〉  と、名刺には、あった。  二人は、駅前にある支店に行き、加藤ひろ子に会った。  なるほど、四十五、六歳で、家庭の主婦という感じの女性だった。 「ああ、あの喫茶店でお会いした方ですか。それなら確か、磯辺功さんという方ですよ」  と、ひろ子は、いった。 「住所は、わかりませんか?」  と、十津川は、きいた。 「前は、この近くのマンションにお住いだったんですよ。その時、何回かお会いしてるんです」 「昨日はあの店で何を話していたんですか?」 「急に磯辺さんから、ここにお電話があったんです。私の名刺を持っていたとかで。それで、保険のことで話を聞きたいというので、私の方からあの喫茶店を指定して、お会いしました」 「それで、彼は、どんなことをあなたに聞いたんですか?」 「生命保険について、いろいろと聞かれましたよ。一億円の保険なら、一回の掛金はいくらだとか、年齢によって掛金はどのくらい違うのかとか。死んだとき、すぐ保険金はおりるのかとか。どんな時、おりないのかとかですわ。それで、私のところの保険をよろしくといって、お別れしたんですけど」  と、ひろ子は、いった。 「彼は今住んでいる場所とか、電話番号なんかを、教えませんでしたか?」 「いえ。そういうことは、おっしゃいませんでしたわ」  と、ひろ子は、いった。      7  十津川は、焦燥にかられた。  磯辺功という男は、誰かに保険をかけて、殺そうとしているのではないか。  いや、すでに、保険をかけているかも知れない。  N生命の加藤ひろ子に話を聞いたのは、誰かにかけた保険のことを確認するためだったかも知れないのだ。  刑事たちが動員され、磯辺の居所を突き止める作業が行われた。  西本と日下は、磯辺が前に住んでいたマンションに出かけて、管理人に話を聞いた。  管理人も、行先を知らなかった。 「去年の十二月の十五日に、引っ越されたんですよ。自分でライトバンを運転して、何回かに分けて荷物を運んで行ったんです。なんでも、今度、結婚すると、おっしゃっていましたよ」 「結婚?」 「ええ。ここに越して来られた時、奥さんを亡くされて、すぐだったということでした。一年して、再婚される気になったんだと思って、おめでとうといったんですがね」  と、管理人は、いった。 「一年前に、奥さんを亡くしているんですか?」 「ええ。その時、奥さんにかけた生命保険のことで、保険会社ともめたといって、怒っていたことがありましたよ」 「なぜ、もめたか、いっていましたか?」 「いいえ。だから私は、保険会社というのは、勧誘するときはおいしいことをいうが、いざとなると、なかなか払わないもんですよって、なぐさめたんですけどね」 「奥さんがどうして亡くなったのか、いっていましたか?」 「病死なのに疑われたとか、いっておられましたよ」  と、管理人は、いった。  この報告を聞いて、十津川はますます事態は悪化したなと思った。  磯辺の妻は病死したが、保険会社が死因に疑いを持って、なかなか保険金を払わなかったらしい。  そして、十二月十五日に引っ越すとき、再婚するといっていたというのだ。  しかも、今年に入ってから、彼は鯉を十五匹買い込み、西湖のバンガローで、鯉に青酸カリを与えて殺す実験をしている。  十津川は、都内の全ての区役所に、十二月十五日から今日までに結婚届を出したカップルの中から、男の名前が磯辺功であるケースを調べ出して貰うように頼んだ。  この作業は時間がかかるかと思ったが、意外に早く結果が出た。  年末から一月にかけて結婚するケースが、少いからかも知れない。  世田谷区役所に、十二月二十五日に、磯辺功が結婚届を出していると、連絡があった。  十津川と亀井が飛んで行き、その結婚届を見せてもらった。  確かに、磯辺功の名前がある。妻の名前は、文子である。年齢は、磯辺が三十五歳。妻の文子の方は、十五歳も年上の五十歳だった。 「お二人で、来られたんですが、ちょっと珍しいご夫婦でしたね」  と、係の人間は、十津川にいった。 「奥さんが、十五歳も年上だからですか?」 「ええ。逆の場合はたまにあるんですが、奥さんの方が十五も年上というのは、初めてでした」  と、係は、いった。  結婚届に書いた住所は、世田谷区代田のマンションである。  十津川と亀井は、区役所から車でそのマンションに廻った。  九階建の真新しいマンションである。駐車場もついている。  まず、管理人に当ってみた。 「506号室の磯辺さんご夫婦は、いい方ですよ。ご主人は優しいし、奥さんは控え目で」  と、管理人は、賞《ほ》めた。 「十五歳も、奥さんの方が年上でしょう?」  と、亀井がいうと、管理人は笑って、 「それが、とてもうまくいってるみたいで、私も感心してるんですよ」 「うまくいってる?」 「ええ。一度、ご主人に聞いたことがあるんですよ。年齢のことでね。そしたら、愛してるから、年の差なんて全く気にならないと、いわれましたよ」 「磯辺さんは、何をしている人ですか?」  と、十津川は、きいた。 「なんでも、経営コンサルタントをやっているとかで、よく車で出かけられますよ。奥さんは、うちの主人は頭がいいのって、自慢していらっしゃいますよ」 「磯辺さんの車は、ブルーのライトバンでしたね?」 「ええ」 「今、駐車場にありませんが、出かけているんですか?」 「そうだと思います」 「奥さんは?」 「部屋にいらっしゃる筈ですよ」  と、管理人は、いった。  二人は、エレベーターで五階にあがり、506号室のベルを押した。  ドアが開き、小柄な女が顔を出した。 「どなた様でしょうか?」  と、笑顔で、きく。 「以前、ご主人にご指導を受けて、何とか会社を建て直すことが出来ました。たまたま近くに参ったので、お礼に伺ったのですが」  と、十津川は、嘘をついた。 「そうなんですか。主人は留守ですけど、どうぞお入りになって下さい」  と、彼女は、二人を招じ入れた。  初めて会った人間の嘘を簡単に信じて、中に入れる。きっと、優しくて、人がいいのだろう。  正直にいって、女性としての魅力は、あまり感じない。人が好いだけの女を、磯辺は犠牲者に選んだのだろうか。  文子は二人に椅子をすすめ、冷蔵庫から冷えた缶ビールを取り出した。 「去年の年末に、結婚したと、伺ったんですが」  と、十津川がいうと、文子は嬉しそうに笑って、 「こんなお婆ちゃんで、びっくりなさったでしょう?」 「そんなことはありませんよ。磯辺さんはどうですか?」 「とても優しいんです。主人のためなら、何でもしてあげたいと、思っているんです」  と、文子は、いう。 (完全に、磯辺のいいなりだな)  と、十津川は、思った。普通なら祝福すべきなのだろうが、この場合は、危険な状況というべきだろう。 「奥さんの家族は、何処で、何をなさっているんですか?」  と、亀井が、きいた。 「もう両親は亡くなっていますし、きょうだいもおりません。天涯孤独なんです」  と、文子は、いった。 (ますます、まずいな)  と、十津川は、思った。犠牲《いけにえ》としては、絶好の条件を備えているのだ。だからこそ磯辺は、この女と結婚したのではないのか。 「私の家内が、保険会社でセールスの方をやっているんですが、よければ、奥さんに入って頂けませんかね」  と、十津川は、探りを入れてみた。  文子は、申しわけなさそうに、 「そうして差し上げたいんですけど、もう、沢山、入ってしまっているんですよ」 「それは、ご主人が、入るようにすすめたんですか?」 「いいえ。私が、自分から、入ったんです。私の方が、必ず、主人より先に死にますもの。私が死んだとき、何か、主人に残してあげたくて」  と、文子は、いった。  ますます、まずい。  二人は、早々に引き揚げることにした。マンションの外に止めておいたパトカーに戻ってから、 「例えは悪いが、あの奥さんは、磯辺にとって、カモが、ネギを背負っているように見えているんじゃないかね。いつでも、料理できるんだ」  と、十津川は、溜息まじりに、いった。 「そうですねえ。あとは、いつ、どんな方法で、あの人の好い奥さんを殺すかしか、磯辺は、考えてないんじゃありませんか」 「といって、彼女に注意しても、聞かないだろうしね」 「十五歳も年上で、平凡な自分と結婚してくれて、ありがとうという気分でしょうからね」 「家族に頼んで、注意して貰おうと思っても、天涯孤独だという」 「いっそのこと、磯辺を、過失致死容疑で、逮捕したらどうですか?」  と、亀井が、いった。 「無理だよ。ホームレスの男を殺した鯉が、磯辺の捨てた鯉だという証拠は、どこにもないんだ」 「そうですねえ」 「ちょっと待てよ」  と、十津川は、急に、眼を光らせて、 「カメさんの考えは、悪くないかも知れないよ」 「しかし、証拠はないんですよ」 「そうだが、圧力はかけられるよ。われわれが、見張ってるぞと知れば、奥さんを殺すのを、ためらうかも知れないからね」  と、十津川は、いった。  すぐ、逮捕状が請求され、磯辺功を、連行した。  取調べには、十津川と亀井が、当った。  十津川が、磯辺を直接見るのは、初めてだった。  繊細さと、傲慢さの入りまじった顔に見える。 「なぜ、自分が逮捕されたのか、いまだにわからないんですがね」  と、磯辺は、いった。 「わからないことは、ないだろう? 君は一月十三日に、河口湖近くで、鯉を十五匹買い、西湖のバンガローで、その鯉に青酸を食べさせる実験をした。その結果、死んだ鯉を西湖へ捨てた。たまたま、ホームレスの男が、バンガローに住みつき、君の捨てた鯉を拾って食べて、死んだんだよ。つまり、君が、その男を殺したんだ。わかったかね?」  と、十津川は、厳しい顔で、いった。  磯辺は、笑って、 「その鯉が、僕のものだという証拠はあるんですか?」 「ない。しかし、それなら、一月十三日に、何のために十五匹もの鯉を買ったんだ。マンション暮しで、飼う池もないのに」 「落語ですよ」 「ラクゴ? 何のことだ?」 「落語にあるじゃありませんか。優しいご隠居さんが、うなぎ屋の前を通ったら、うなぎ屋が、うなぎを割《さ》こうとしている。ご隠居は、可哀そうになって、そのうなぎを買って、川に放してやった。それですよ。あの店の前を通ったら、鯉売りますと、書いてあった。それを見たら、急に、鯉が可哀そうになりましてね。十五匹ほど買って、河口湖に放してやったんです。西湖には行っていませんよ」  と、磯辺は、笑った。 「人を、おちょくるのか!」  亀井が、怒鳴った。今にも、殴りかかりそうなのを、十津川は、手で制してから、磯辺に向って、 「君が、何を企んでいるか、われわれは、よく知ってるんだよ。君は、奥さんに、高額の保険をかけて、殺そうと企んでいる。鯉を毒殺したのはその準備行動だった。いいかね。警察を甘く見ちゃいけない。君の奥さんが死んだら、君が殺したとみて、徹底的に調べるよ」  と、いった。  磯辺の眉があがり、挑戦的な眼になった。 「人間は、いつ死ぬかわかりませんよ。明日、交通事故で死ぬかも知れない。それなのに、いちいち、警察は疑うわけですか?」 「疑うべき時は、疑うさ。特に君の場合はだ」  と、十津川は、いった。  結局、磯辺は、釈放された。自分の脅しが、効果があるかどうか、十津川にも、わからなかった。      8  もう二度と、過失致死容疑で、磯辺を連行し、勾留することは、出来なくなった。  妻の文子は、磯辺を信じ切っていた。こちらの警告を、聞き入れてくれる気配はない。 (このままでは、磯辺が妻の文子を殺すのを、手をこまねいて見ているより仕方がないのだろうか?)  十津川は、疲れを感じた。精神の疲労といっていいだろう。  文子は、こちらが、助けたいと思っているのに、ニコニコしながら、断るのだ。だがそれでも、何とかして、殺人を防がなければならない。  十津川は、三田村と北条早苗の二人に、磯辺の前の妻の死因を調べさせた。それを文子に伝えて、何とか、危険を知らせたかったからである。  磯辺の前妻、良江も、年上だった。結婚してすぐ、心臓発作で、死亡している。一億円の生命保険がかけられていたことで、保険会社が疑念を持ち、なかなか保険金の支払いに応じなかったが、結局、病死となって、一億円は磯辺に支払われている。 「奥さんが寝ている時に、布団か、濡れ手拭かで、顔を蔽《おお》って、窒息死させたのではないか、そんな疑いを持たれたらしいんですが、証拠が見つからず、警察も、手をつけられなかったということです」  と、三田村は、十津川に、報告した。 「その奥さんは、心臓が悪かったのか?」  と、十津川は、きいた。 「いや、心臓の持病は、全くなかったそうです。それで、保険会社が、疑念を持ったようですわ」  と、早苗が、いった。 「今度も、心臓発作で死ねば、疑惑はもっと大きくなる。それで、毒物で殺すことを、考えているんじゃありませんか?」  と、亀井が、いった。 「しかし、それでは、当然、殺人の疑いが磯辺にかかってきますよ。そんな危険なことを、あの男が、やりますかね?」  と、西本が、首をかしげた。  それに対して、十津川が、 「磯辺は、N生命の勧誘員に、被保険者が病死ではなく、殺されたりした時は、三倍の保険金が支払われるのかと、しつこく聞いているんだ。だから、今度の奥さんを、殺すことも、十分に考えられる。もちろん、犯人は、別にいるという恰好でだよ」  と、いった。  二月に入って、磯辺が旅行に出るという知らせが、十津川の耳に入った。 「経営コンサルタントとして、地方の中小企業なんかに、講演に行くんだそうです。今日から十日間です」  と、日下が、報告した。 「例のライトバンに乗ってか?」 「そうです」 「本当に、講演に行くのかね?」 「行くらしいですよ。一応、彼は、大学の経済を出ていますからね。地方の中小企業の社長なんかは、ありがたがるみたいです」 「しかし、出かけるのは、アリバイ作りかも知れないな。彼が留守の間に奥さんが死ぬように、工作しているのかも知れない」  と、十津川は、いった。 「どうやってですか?」  と、西本が、きく。 「磯辺の奥さんに、持病はないのか?」 「健康ですが、血圧が高いと聞いたことがあります」 「高血圧だと、降圧剤を常用することになるんだろう?」 「そうらしいです」 「その薬が、危いかも知れないな」  と、十津川は、いった。  磯辺が車で、東北に向って出発したのを確認してから、十津川と亀井は、代田のマンションに、文子に会いに出かけた。  今回は、最初から、正直に刑事であることを告げた。文子は、そう聞いたとたんに、心配げな顔になり、 「主人に、何かあったんでしょうか?」  と、きく。 (これでは、磯辺に用心しろといっても、なかなかいうことを聞かないだろうな)  と、十津川は、思いながら、 「ご主人は、何でもありません。それより、奥さんは、血圧が高いそうですね?」 「はい」 「何か降圧剤をのんでいますか?」 「前は、何ものんでいなかったんですけど、主人が心配してくれて、買って来てくれましたので、それを毎日、のむことにしていますわ」  と、文子はいい、びんに入った薬を見せてくれた。  カプセル入りの薬だった。  十津川はそれを、じっと見つめた。毎食後一錠と、書かれている。この中のいくつかのカプセルに、青酸を入れておけば、数日のうちに必ず死ぬだろう。 「これを、お借りして行きたいんですが」  と、十津川がいうと、文子は困惑した顔で、 「これは、主人が私を心配して、必ず毎日のむようにといって置いていったものですから」 「これと同じものをすぐ、持って来させます」  と、十津川は、いった。  亀井が電話で西本に薬の名前をいい、警察手帳を見せてもいいから、すぐ手に入れて、持って来いと命じた。  二時間ほどして、西本が、同じ薬を抱えて、駈けつけた。 「いったい、何なんですか?」  と、文子は、眉をひそめてきくので、十津川は、 「あとで説明しますから、もしご主人から電話があったら、内緒にしておいて下さい。お願いします」  と、念を押し、彼女がのむ筈だった薬を持って、マンションを出た。  十津川は、その足で、科研に走った。  顔なじみの沢木技官に、薬をみせて、 「この錠剤の中に、青酸入りのものがある筈なんだ。それを調べて欲しい。一つ一つ調べるのは大変だろうが、お願いする」  と、いった。  沢木は面白そうに、聞いていたが、 「この中に三十錠入ってるが、このどれに、青酸が入っているか、特定しなきゃいけないのかね? それとも、青酸入りのものが、あるかどうかだけわかればいいのかね?」 「後の方でいいんだ」 「この薬が全部、もう使えなくなってもいいのか?」 「ああ、構わない。代りの薬は、用意できてるからね」 「それなら、簡単だよ。十二、三分でわかる」 「そんなに簡単に、わかるのか?」 「全部、いっぺんに溶かして、そこから、青酸が検出されればいいわけだからね。ちょっと待っていてくれ」  と、沢木はいい、薬びんを持って、奥へ消えた。  十津川は、待った。すぐ、結果を知りたかったからである。  十二、三分して、戻ってくると、沢木は、 「結果は、ノーだったよ」  と、あっさり、いった。 「ノーって、青酸は、入ってなかったのか?」 「全く、入ってないね。入っていた方が、よかったのか?」 「いや、何ともいえないんだ」  十津川は、あいまいないい方をして、科研を出た。  警視庁に戻ると、亀井と西本が、期待した眼で、十津川を見た。 「結果は、ノーだ。青酸は、入ってなかったよ」  と、十津川は、いった。 「じゃあ、磯辺は、あの錠剤で殺す気はなかったということですか?」  と、西本が、きいた。 「そういうことになるね」 「考えてみれば、磯辺がすすめた降圧剤で死ねば、彼の犯行とすぐわかってしまいますからね。降圧剤は、使わないかも知れませんね」  と、亀井が、いった。  そのあと、亀井は、 「警部が、出られたあと、私と西本刑事が、しばらく、彼女と話したんですが、今、彼女は歯を治しているんだそうです」  と、いった。 「そういえば、ちょっと喋《しやべ》りにくそうにしていたね」 「なんでも、旦那の磯辺が、すすめたんだそうです。この際、歯を全部、治しなさい。そうすれば、君は、もっときれいになる。治療費は、いくらでも僕が出してやると、いわれたそうです。嬉しそうに、いってましたよ」 「彼は、何か企んで、歯の治療をすすめたのかね?」  と、十津川は、きいた。 「彼女は、こういってました。虫歯を全部治すので、今は、うまく噛《か》めなくて、呑み込むようにしているんです」  と、西本は、いった。 「鯉だ」  と、十津川は、呟いた。 「鯉──ですか?」 「ああ。鯉と同じに、呑み込むのさ。普通は噛めば、すぐ気付いて、吐き出すかも知れない。しかし、青酸入りの何かを、呑み込んでしまったら、絶対に助からないだろう。それが、磯辺の狙いじゃないかね」  と、十津川は、いった。  だが、磯辺が、どうやって、文子に青酸をのませようとしているのか、それも自分が疑われずにのませようとしているのかが、わからなかった。 「とにかく、警戒してくれ。それから、周辺の聞き込みもやって欲しい。磯辺が、何を企んでいるか、知りたいんだよ」  と、十津川は、いった。      9  更に二日たって、北条早苗が、妙な話を持って来た。 「あのマンションから、百メートルほどのところに、代田派出所があり、三人の警官がいます」 「それで?」 「二週間ほど前に磯辺がやって来て、こんな相談をしたそうです。妻とは新婚だが、彼女によく無言電話がかかってくるし、女の声で『お前を殺してやる』という脅しもあった。妻は、誰かに恨まれているらしいのだが、どうしたらいいかとです」 「妙な相談だな」 「それで、派出所の警官は、これ以上無言や、嫌がらせの電話が続くようなら、電話局に相談して、番号を変えなさい。警察は今のところ、何も出来ないと、返事をしたそうですわ」 「それに対して、磯辺は何といったんだ?」 「自分は、妻に、気をつけるようにいっているのだが、呑気《のんき》なので困っている。知らない人から送って来た食物でも、平気で食べてしまうので、怖いといって、帰って行ったそうですわ」  と、早苗は、いった。 「カメさん、どう思うね?」  と、十津川は、きいた。 「それは、明らかに、事前工作ですよ」 「カメさんも、そう思うか?」 「思いますね。妻は、誰かに恨まれている。それで知らない人からの贈り物には注意しろと、いつもいっていた。それなのに、妻の文子は、わけのわからない贈り物を食べ、中に入っていた青酸で死んでしまった。こういう筋書きにしたいんでしょう」  と、亀井は、いった。 「どうしたらいい?」 「外から、文子に送って来たものを、全部チェックしたいですね。特に、食べ物です」 「しかし、文子に話したら、彼女は、われわれの話より磯辺を信用して、彼に喋ってしまうよ」 「それなら、彼女に内緒で、やるより仕方がありませんね。管理人には、協力してもらい、506号室に届けられる全てを、チェックするんです」  と、亀井は、いった。  それは、すぐ、実行された。  刑事を、五階の廊下と、一階の郵便箱のところに交代で配置して、管理人と一緒に、磯辺文子宛に届く品物を、チェックするのである。  磯辺が出かけて五日目の午後、小包郵便で小さな荷物が届いた。  五階で、西本が警察手帳を見せて、その荷物を受け取り、すぐ、十津川に連絡を取った。  十津川と亀井が、駈けつけた。  小さな菓子箱ほどの大きさである。宛名は、磯辺文子様になっている。  差出人は、夫の磯辺功の名前だった。 「これは、違うんじゃありませんか。夫が送ったものを食べて、文子が死ねば、当然、夫が疑われますよ」  と、日下が、いった。 「消印を見ろよ」  と、十津川は、いった。 「え?」 「消印は、岡山だ。今、磯辺は、東北旅行中だ。それに多分、この筆跡も、磯辺のものじゃないよ」  と、十津川は、いった。 「どういうことでしょうか?」 「わかってるじゃないか。夫の磯辺の名前を使って、妻の文子を憎んでいる人間が、毒入りの何かを送って、彼女を殺した。そういうストーリイになるんだ」  十津川は、喋りながら、小包の包み紙を破いていった。中から出て来たのは、岡山名産と書かれたブドウの形の菓子だった。  ややかためのゼリーで、ブドウの形を作ってあるのだ。丁度、マスカットの大きさである。それが本物のように、一房に何粒もついて、三房分が入っていた。  十津川は、それをもう一度、科研に持ち込み、今度は一粒ずつ調べて貰った。  沢木技官は、 「一粒だと、時間がかかるよ」  と、いったが、すぐ、検査室から出て来て、 「一粒目から、青酸カリが出たよ。二粒目も、三粒目もだ」  と、いった。 「多分、全部の粒に、入っているんだ」  と、十津川は、いった。 「多分、そうだろうね」 「どんな形で、入っているんだ?」 「青酸液を注入したのなら、ゼリー菓子が変色してしまうが、これは青酸の粉末を、うまく、粒の中心部に押し込んである。作った人物は、さぞ、大変だったと思うね」  と、沢木は、いった。 「そういうことの好きな人間なんだ」 「ただね、食べる途中で、青酸の粉末がこぼれ落ちたら、気付かれてしまうがね」 「呑み込めば、こぼれることなんかないんだろう?」 「そりゃあ、そうだが」 「それで、いいんだ」  と、十津川は、いった。      10  これで、磯辺の犯行計画はわかった。が、文子に話しても、彼女は全く信じようとしなかった。 「主人が、そんなことをする筈がありません」  と、いい張るのだ。 「結婚してから、あなたに無言電話や脅迫電話が、かかってきたことはありますか?」  と、十津川は、きいた。 「いいえ。そんなことは、一度もありませんわ」  と、文子は、いう。  だから、磯辺が怪しいのだといっても、彼女はこちらの言葉は信じないだろう。 (どうしたらいいだろう?)  と、十津川は考えてから、文子に向って、 「あなたを、逮捕します」  と、いきなり、いった。 「何なんですか?」  文子が、顔色を変えて、十津川を睨む。 「万引き容疑です」 「そんなこと、私、していません!」 「近くのスーパーから、訴えが来ているんです。西本と日下、この人を連れて行ってくれ」  と、十津川は、いった。  亀井が心配そうに、二人の刑事に連行されていく文子を、見送ってから、 「あんなことをして、大丈夫ですか?」 「仕方がないよ。彼女を助けるためだ」  と、十津川は、いった。 「これから、どうしますか?」  と、亀井がきいた時、電話が鳴った。一度、二度、三度と鳴る。 「磯辺が、反応をみるために、電話して来たんだろう」  と、十津川は、いってから、 「今、文子が出なくても、歯医者に行っているかも知れないと思い、夜もう一度、かけてくる筈だ。それでも文子が出なければ、磯辺は死んだと思う」 「ええ」 「そのあと、多分、管理人に電話して、家内が出ないから、見て来てくれと頼む」 「なるほど、きちんと手続きを踏むわけですか」  と、亀井が、苦笑した。 「すぐ、下へ行って、管理人に協力を頼んでおこう」  と、十津川は、いった。  十津川は、管理人と綿密に打ち合せをし、その夜、亀井は、管理人室に居すわることにした。  午後十時過ぎに、管理人室の電話が鳴った。  管理人が、受話器を取る。 「ああ、磯辺さんですか──え? 奥さんが電話に出ないんですか? わかりました。すぐ、見て来ます」  と、管理人はいってから、十津川たちに眼で合図し、部屋を出て行った。  本当に、五階まで往復してくれと、十津川は頼んでおいたのである。磯辺に、少しでも、怪しまれてはいけなかったからだ。  管理人が、戻ってきた。息が弾んでいるのは、帰りは階段をおりて来たからだろう。それも、十津川が頼んだことだった。息が弾んだ方が、真実味が出るからだ。  管理人は、受話器を取ると、十津川が教えた通りに、 「大変です。部屋で、奥さんが死んでいます。もう駄目とは思いますが、救急車を呼びます。磯辺さんは? ああ、わかりました。お待ちしています」  と、いって、切った。  管理人は、青い顔で、十津川に、 「磯辺さんは、明日一番の新幹線で、仙台から戻ると、いっていました。車では、時間がかかるので」 「ご苦労さん。いい演技でしたよ」  と、十津川は、賞めた。  あとは準備を整えて、磯辺が帰って来るのを、待つだけだった。  翌日の午前九時過ぎ。  磯辺が、帰って来た。  エレベーターで五階にあがると、廊下を走って、自分の部屋の前まで来た。  ドアの前には、警察がロープを張り、制服警官が二人、立っていた。 「中に入れてくれ!」  と、磯辺は、大声で叫んだ。 「どなたですか?」  と、警官が、きく。 「僕は、磯辺功だ。この部屋の人間だ!」  磯辺は、また、怒鳴った。  部屋の中から、十津川が、 「その人はいいんだ。入って貰え」  と、警官に、いった。  磯辺は、ロープをくぐって、居間に入ると、そこにいた十津川に向って、 「何があったんですか? 昨夜、管理人さんは、文子が死んだとかいってましたが、僕は信じないで、駈け戻ったんです。彼女が死んだなんていうのは、嘘なんでしょう!」  と、磯辺は、声を張りあげた。 「お気の毒ですが、奥さんは亡くなりました」 「そんな馬鹿な。僕は、信じませんよ」 「奥さんの遺体は、今、大学病院です」  と、十津川は、いった。 「なぜ、そんな所に?」 「死因に、疑問があったので、司法解剖しました。青酸中毒死でした」 「そんな──」 「ところで、これを見て下さい。遺体の傍にあったものです」  と、十津川は、例のゼリー菓子と、包んであった紙を、磯辺に見せた。 「何ですか?」  と、磯辺が、きく。 「あなたの名前で、昨日、奥さんに送られて来たお菓子ですよ。奥さんは、これを食べて死んだんです。調べたところ、このゼリーのブドウの粒の中に、青酸が仕込まれていたことが、わかりましてね」 「───」 「あなたの名前で送って来たので、奥さんは、安心して食べたんだと、思いますよ」  と、十津川がいうと、磯辺は激しく首を横に振って、 「僕は、こんなもの送っていません」 「しかし──」 「この消印だよ。見て下さいよ。岡山の消印じゃありませんか。僕は、ずっと東北に、行ってたんですよ。青森、弘前、秋田、仙台と、講演した場所も、泊ったホテルも、調べて下さればわかりますよ」 「しかし、あなたの名前で、送って来ていますよ」 「確かにそうですが、僕が書いたものじゃない。筆跡は似ていますが、筆跡鑑定して下されば、違うことがわかる筈ですよ」  と、磯辺は、大きな声で、いった。 「わかりました。調べてみましょう」  と、十津川は、いった。  突然、磯辺は、激しくテーブルを叩《たた》いた。 「だから、いったんだ!」  と、叫ぶように、いった。 「何がですか?」 「結婚した直後から、家内には毎日のように、無言電話や、お前を殺してやるといった脅迫電話がかかっていたんですよ」  と、磯辺は、いった。 「本当ですか?」 「こんなこと、嘘をいったって、仕方がないじゃありませんか」 「誰かに、相談しましたか?」 「この先の派出所のお巡りさんに、相談しましたよ。しかし、本気で、相談にのってくれなかった。だから僕は、家内にいったんです。君を憎んでいる人間がいるんだから、何か送って来ても、絶対に注意しろ。食べ物なら絶対に食べるなって、いったんです。たとえ、僕の名前で送って来ても、食べちゃ駄目だってですよ。あんなに注意したのに、なぜ、食べたんだ!」  磯辺は、また、激しくテーブルを叩いた。 「本当に、そう、注意されたんですか?」  と、十津川はいって、磯辺を見つめて、きいた。 「本当ですよ。今度、旅行に出かける時も、何回も、いい聞かせたんです。それなのに、なぜ──」  磯辺は、下を向き、嗚咽《おえつ》し始めた。 「聞いてみましょうか?」  と、十津川が、いった。  磯辺が、「え?」という感じで、顔をあげて、十津川を見た。 「今のことを、聞いてみましょうかと、いったんですよ」 「ああ、派出所のお巡りさんに、聞いて下さい。家内が無言電話で怖がっていたことを、僕が相談に行ったことは、覚えていると思いますから」 「いや、派出所のことじゃありません。カメさん!」  と、十津川は、呼んだ。  寝室のドアが開いて、亀井が、文子を連れて出て来た。  文子の顔は、真っ青だった。  それ以上に、磯辺の顔が青ざめ、血の気を失っていくのがわかった。      *  磯辺が自供したところでは、彼に女がいて、彼女に宛名を書かせ、岡山から、青酸入りの菓子を、送らせたのだということだった。  文子の保険金が入ったら、その女と結婚するつもりだったとも、いった。  そして多分、次には、彼女に保険をかけてということだったのだろう。 「少くとも、われわれは、二人の女性を、救ったことになりますね」  と、亀井は、いった。  何とも辛い今度の事件で、それが唯一の救いだなと、十津川は、思った。 [#改ページ]   恐怖の清流 昇仙峡      1  一月末の寒い時期だった。  正確にいえば、一月二十五日。ウィークデイで、陽は当っていたが、風は冷たい。  警視庁捜査一課の十津川は、部下の亀井刑事と、甲府駅で降り、バスに乗って、昇仙峡に向った。  もちろん二人は、観光に来たわけではない。仕事だった。  一月に入って、たて続けに二人の人間が、昇仙峡で死んだ。五十歳の男の会社役員と、三十五歳のこれも男のテレビタレントが、水死体で発見された。  山梨県警がこの二つの事件を扱い、結局、自殺と断定している。  二人とも遺書が発見され、それぞれに自殺する理由があったからである。  二人は、死ぬ前日に湯村温泉のホテルに泊り、ホテルに遺書を残していた。  十津川がこの二つの事件に関係したのは、死んだ二人が東京の人間で、山梨県警から捜査協力を要請されたからである。  二人の性格、家族関係、仕事の状況などを調べて、県警に報告したのだが、県警が自殺と断定して、事件は解決した。  だが、十津川は何となく、この事件に疑問を持った。その疑問を晴らしたくて、亀井を連れて、山梨にやって来たのである。  寒いせいか、バスの乗客は、少い。窓の外の景色も、寒々としていた。  この辺りは、甲州ぶどうや梨の産地で、収穫の季節になれば、観光客で賑わうのだろうが、今は人の気配もなく、ぶどうの畠も、梨園も、枯木のように何も実っていない。  二人は、昇仙峡の入口の天神森で、バスを降りた。  ここから上流に向って歩き、高さ三十メートルの仙娥滝までが、渓谷美を楽しむ絶好のルートになっている。  バス停の周囲には、土産物店や食堂などが集っているのだが、この季節、客が少いせいか、ほとんどの店が閉っていた。  二人は、ゆるい坂道を昇仙峡の入口に向って、登って行った。  坂道の両側にも、点々として、特産の水晶細工を売る店が並んでいるのだが、ここも開いている店は少い。  閉った店先に、大きな水晶の原石が無造作に置かれていて、嘘か本当か、何百万といった値段が書かれていた。  人の姿はない。こんな寒い時期、それもウィークデイに、昇仙峡を見物に来る物好きはいないのだろう。 (だが、あの二人は、ここにやって来て死んだのだ)  と、歩きながら、十津川は考える。  一人目は、広瀬克己という名前だった。R精工の重役の一人である。いや、だったというべきだろう。野心家だったことが災いして、株に手を出し、失敗し、揚句、会社の金を使い込んだ。  一月十日。まだ正月気分が抜けない日に、広瀬はひとりで湯村温泉のKホテルに泊り、翌十一日の午後、昇仙峡で水死体で発見された。  そのあとKホテルの広瀬の部屋から、遺書が発見された。宛先は、彼が勤めていたR精工の社長宛だった。 [#1字下げ]〈私は、貴社に長年ご恩を受けながら、今回は、会社の名誉を傷つけ、誠に申しわけありません。深く考えた末、死をもってお詫《わ》びすることを決意致しました。それによって会社に与えた損害を償えるとは思いませんが、何とぞお許し下さるよう、お願い致します。 [#地付き]広瀬克己〉  筆跡鑑定が行われた結果、広瀬本人のものに間違いないことが、確認された。  広瀬は三億円の生命保険に入っており、その保険金は、支払われた。受取人は、妻の保子だった。  二人目のテレビタレントの場合も、よく似ていた。三十五歳の中堅のタレントの森下健は、バクチ好きで、競輪や競艇にのめり込み、所属するNプロダクションに一千万円、更にサラ金各社から二千万円の借金を作ってしまった。サラ金会社の中には暴力団系のものもあり、森下の出演しているテレビ局などにも押しかけてくるようになり、彼はあわてて姿をかくしたりしていた。  一月十八日。森下は、湯村温泉の同じKホテルに、ひとりでチェック・インした。三日間の予定で、十八日と十九日は芸者を呼んで思い切り遊んだあと、二十日の朝、昇仙峡で水死体で見つかった。  広瀬の時と同じように、彼の泊った部屋から、Nプロダクション社長宛の遺書が発見された。 [#1字下げ]〈私は、Nプロに育てられ、ご恩になりました。それなのに、今回、大変ご迷惑をおかけし、プロダクションの信用まで落とす結果になってしまいました。このままでは申しわけなく、死んでお詫びすることにしました。もちろん死んですむことではありませんが、お許し下さい。 [#地付き]森下 健〉  この時も筆跡鑑定が行われ、森下本人が書いたものと断定された。  森下の場合は、一億五千万円の生命保険に入っており、受取人は内縁の妻である高田久美子だった。      2  二人は、自動車の通る道路から、渓谷沿いの遊歩道に入った。  柵のある狭い遊歩道を歩く。巨大な岩石が点在し、その間を清流が、音を立てて流れている。  対岸は、絶壁が続いている。  その断崖の下に、寺があった。昔は山岳仏教の寺として栄えたという羅漢寺である。今は僧侶のいない無住寺だった。  広瀬の水死体は、この近くで発見されたといわれている。  山梨県警の話では、広瀬の身体には多くの打撲傷が見られ、恐らくこの先の仙娥滝に飛び込み、それがこの辺りまで流されたのだろうということだった。  二人目の森下は、もう少し上流の、滝に近い場所で発見された。  流れは蛇行しているので、問題の滝はなかなか見えて来ない。  いぜんとして、寒い。身体が冷えてくる。十津川は、コートの襟を立てた。  遊歩道は、橋をわたり、渓流の対岸にのびている。橋には、昇仙橋の名がついていた。  二人は、その橋を渡った。  やっと前方に、滝が見えた。  落下する水音が聞こえる。滝の片側に、コンクリートの階段があった。  二人がそれを登って行くと、若いカップルが降りてくるのとぶつかった。  登り切ったところが駐車場になっていて、滝を見るだけなら、車でここまで来てもいいのだ。  小さな駐車場の周囲にも、土産物店や食べもの店が並んでいた。  ここも、観光客が少いせいか、開いている店は少い。  二人は、開いている食堂を探して入り、少しおそい昼食をとることにした。  赤く燃える石油ストーブで暖をとりながら、十津川は亀井に、 「感想を聞かせてくれないか」  と、いった。 「やたらに寒いのには閉口しましたが、美しい渓谷でした」  と、亀井は、笑った。 「確かに、景色は美しい」 「そんな景色の中で、たて続けに二人も死ぬなんて、不思議な気がしましたね」 「県警の話では、美しい景色に魅せられて、二人が自殺の場所として昇仙峡を選んだんだろうということだった」 「なるほど。確かに自殺の名所といわれるところは、美しい景色ですね。東尋坊も、日光の華厳の滝も、熱海の錦ヶ浦も」 「県警が自殺と断定した理由の一つに、それもあったらしい」 「そうでしょうね。私だって、自殺するなら、美しい場所で死にたいと思いますよ。ヘドロの海では、死にたくありません」  と、亀井は、いった。  ラーメンが、運ばれてきた。  亀井は、コショウをふりかけながら、 「警部は、まだ、この二つの事件はおかしいとお考えですか?」  と、きいた。 「納得は出来ないものがあるね」  と、十津川は、いった。 「死場所が同じ、その前日に泊ったホテルも同じだからですか?」 「それに、遺書だ」  と、十津川は、いった。 「しかし、警部。筆跡は、本人が書いたものと確認されていますよ」  と、亀井はいい、勢いよく箸《はし》を動かした。  十津川は、ポケットから二つの遺書のコピーを取り出して、それをテーブルの上に並べた。 「問題は、文章だよ。ほとんど同じなんだ」 「そうでしたか?」 「もちろん、全く同じではないが、全体の調子がよく似ているんだよ」  と、十津川は、いった。  亀井は箸を置いて、二つの遺書を手に取った。 「なるほど。文章はよく似ていますね」 「二つの事件に、類似点が多すぎるんだよ」  と、十津川は、いった。 「しかし、だからといって、自殺ではないとはいえないでしょう? 遺書があり、筆跡は本人のものだとなると、自殺と断定せざるを得ないんじゃありませんか。また、二人は高額の生命保険に入っていましたが、それぞれの受取人である妻と、内縁の女には、ちゃんとしたアリバイがあった筈《はず》ですよ」  と、亀井は、いった。 「それは、わかっている」  と、十津川は、いった。 「動機のある人間がシロなんですから、どうしても自殺ということになるんじゃありませんか」 「広瀬と森下の間に、何の関係もないんだ。いくら調べても、二人の間に共通点は見つからなかった」 「その通りです。年齢も、職業も、本籍も、友人たちもです。二人が出会ったこともなかった筈です」  と、亀井が、いう。 「そんな人間が、いざ死ぬとなったら同じ昇仙峡を選び、同じホテルに泊り、よく似た遺書を書いた。なぜだ?」  と、十津川は、亀井を見た。 「答がないわけじゃありません」 「いってみてくれ。カメさん」 「二人とも、東京の人間です。その二人が自殺の場所を選ぶとなると、富士山の周辺か、伊豆半島あたりと考えるんじゃありませんか。そうなると、二人が昇仙峡を選んだとしても、不思議はありません」 「その他のことは?」 「湯村温泉に泊ったのは、昇仙峡に一番近い温泉だということからじゃないかと思います。ここに一泊か二泊して、自分の気持を確認し、遺書を書いたんだと思いますね」  と、亀井は、いった。 「同じKホテルに泊ったことは?」 「これは、偶然じゃありませんか」  と、亀井は、いった。 「偶然ねえ」 「あり得ないことじゃありません」 「わかってるよ。偶然、湯村のKホテルに泊ったあと、自殺したということだってあり得るさ。遺書の文面が、偶然、似てしまうこともだ」 「そうです。同じように莫大な借金を作って、追い詰められていたわけですから、遺書が似ても、おかしくはないと思います」  と、亀井は、いった。 「だが、引っかかるね」  と、十津川は、頑固にいった。 「警部」 「何だ?」 「正直にいいますと、私も、多少は引っかかっているんです。もし、自殺でないとすると、他殺《ころし》ということになるわけでしょう?」 「ああ、そうだ」 「そうなれば、犯人は、二人の死で利益を得る人間ということになってきます」 「それで?」 「利益を得る者は、はっきりしています。さっきもいいましたように、生命保険の受取人です。広瀬の場合は、妻の保子、森下の場合は、内縁の高田久美子です」 「その二人には、確固としたアリバイがあるというわけだろう?」 「そうです」  と、亀井は肯《うなず》いてから、 「もちろん、共犯がいて、その人間が殺したということも考えられますが、それこそあまりにも偶然ということになってしまいます。続けておきた事件が、二つとも共犯者が犯人というのはです」 「カメさん」 「はい」 「広瀬の場合も森下の場合も、高額の借金をしていたんだ。広瀬は億を超える会社の金を流用していたし、森下は千万単位の金を所属プロダクションとサラ金から借りていた。だから、生命保険がおりても、全額が、妻の保子と内縁の高田久美子の手に入るわけじゃない」  と、十津川は、いった。 「わかっています。しかし、まさかR精工の社長が広瀬を殺したとは思えませんし、Nプロダクションの社長やサラ金の人間が、森下を殺したとも思えませんが」  と、亀井は、いった。 「確かに、そうなんだがねえ」  十津川は、眉を寄せて、考え込んだ。  今回の二つの事件には、疑問がある。が、その疑問の答がどうしても見つからないのだ。 「もう一度、滝を見たいね」  と、十津川は、いった。      3  身体が温まったので、二人は食堂を出ると、仙娥滝を見に行くことにした。  今度は滝に沿って石段をおりて行った。勢いよく落下する滝から、水しぶきがかかってくる。  一月十一日の早朝と十九日の夜、二人の男がこの滝に身を躍らせたのだろうか? それとも何者かに突き落されたのか?  そして死体は急流にのり、巨岩にぶつかりながら下流に流されたのか?  二人は石段をおり、遊歩道を逆に、天神森のバス停まで歩いて行った。  結局、疑問は晴れもしなかったし、深まりもしなかった。  十津川は、今度は湯村温泉のKホテルに行ってみることにした。二人が最後の夜を過ごしたホテルである。  湯村は北側に低い山はあるが、平地に広がる温泉街といってもいい。中央に湯川が流れ、その両側にホテル、旅館が並ぶ。  Kホテルは八階建で、中堅のホテルといったところだろう。  ホテルの社長は、奥田功、五十歳。おかみさんの名前は、奥田由紀、四十歳。県警の調べでは、この夫婦は死んだ広瀬、森下とは何の関係もないことがわかっている。  広瀬と森下は、同じ七階の部屋に泊ったが、全く同じ部屋というわけではなかった。広瀬は702号室、森下は716号室である。  十津川と亀井は、Kホテルに一泊することにした。  夕食の前におかみさんが、あいさつに部屋に顔を出した。 「ここに泊ったお客が二人も、昇仙峡で自殺したんだってねえ」  と、十津川は何気ない調子で話しかけた。  小柄で色白なおかみさんは、眉を寄せて、 「そうなんですよ。何か縁起の悪いホテルみたいに思われて、困っているんですけどねえ」 「二人とも、泊った時は、自殺するようには見えなかったの?」  と、亀井が、きいた。 「気がつきませんでしたねえ。森下さんなんか芸者を呼んで、派手に遊びましたから」 「死ぬ前に派手に遊んで、ぱッと死んだということですかねえ」 「そうでしょうね」 「遺書は誰が見つけたんですか?」  と、十津川は、きいた。 「ここの警察の方ですよ。広瀬さんも森下さんもあと一日、お泊りになる予定だったので、まさかあんなことになるなんてぜんぜん、考えていなかったんですよ。そしたら突然、警察の方が見えて、ここの泊り客と思われる人が昇仙峡で亡くなっているといわれて、びっくりしたんです。そしてお部屋を警察の方が調べて、見つけたんですよ」 「二人とも、同じ形ですか?」 「ええ。時間は違っていましたけどね。二度あることは三度あるんじゃないかと心配で、お祓いでもしようかなと思っているくらいなんです」  と、おかみさんは真剣な表情でいった。 「その後、何か変ったことは起きていませんか?」  と、十津川が、きいた。 「変ったこととおっしゃいますと、どんなことでしょうか?」 「例えばあれは自殺じゃないという手紙や電話があったとか──」 「いいえ。そういうことはありませんわ」 「おかみさんは自殺だと思っていますか? それとも、自殺にしてはおかしいところがあるとか」 「私にはわかりませんわ。そういうことは警察が判断することで、警察は自殺と判断したんですから、そうなんじゃありませんの」  と、おかみさんは、いった。  おかみさんが退《さが》ってから、十津川は、 「とにかく温泉に来たんだ。温まって来ようじゃないか」  と、亀井を誘った。  丹前に着がえ、二人は一階にある大浴場におりて行った。  二人はゆっくりと湯舟に浸る。 「さっきフロントに、芸者を呼んでくれるように頼んでおいたよ」  と、十津川が、いった。 「芸者ですか?」 「森下は最後に芸者を二人呼んで、派手に遊んでいる。その時の一人で、名前は清乃だ」  と、十津川は、説明した。  六時半の夕食の時、その清乃が、やってきた。年齢は、三十五、六といったところか、細面で、着物がよく似合っている。  少し、酒がまわったところで、十津川が、 「ここのおかみさんに聞いたんだが、君は、大変な目にあったんだってねえ。君を呼んだお客が、昇仙峡で、自殺したと──」  と、芸者の清乃にいった。  清乃は、膝《ひざ》をのり出すようにして、 「そうなんですよ。本当に、びっくり」 「君と、もう一人、芸者を呼んだんだってね」 「ええ。私と、夕貴さん」 「ひとりで、二人も、呼んだんだ?」 「ええ」 「お客は、派手に騒いだわけだ。よく飲んだの?」 「ええ。飲んで、唄って、チークダンスをして」 「どんな話をしてたのかな?」 「あのお客さん、テレビによく出てる人でしょう。だから、有名なタレントさんの話を、沢山してくれて、楽しかったわ。S・Tさんはあんな顔をしてるけど、本当は女には興味がないんだとか、N・Kさんはすごいケチだとか──」 「なるほどね。自殺するような気配は?」  と、亀井が、きいた。 「あとで考えると、少しばかり、はしゃぎすぎてたかなと思いましたけど、その時は、ぜんぜんわかりませんでしたわ」 「昇仙峡のことを、何か聞いていなかったかな?」  と、十津川は、きいた。 「特別に、聞かれたという記憶はありませんわ。もちろん、昇仙峡は、この辺の名所ですから、ちらりと、出てきたことはありましたけど」  と、清乃は、いった。 「バクチのことは、話してなかったかな? 彼は、バクチ好きだったんだが」  と、亀井がきくと、清乃は笑って、 「そういえば、雨が降るかどうかで賭けて、私は一万円|貰《もら》いましたよ」 「どういうこと?」 「あの日は、雨が降りそうで、天気予報は、夜になってから、雨になるといってたんです。それで、あのお客さんが、午後九時までに、雨が降るかどうか賭けないかって。私が、降らない方に賭けて、結局、予報が外れて、降らなかったんですよ。それで、一万円貰いましたわ」 「君が負けたら、どうすることになっていたんだ?」 「キスすることになってましたわ」  と、清乃は、また笑った。  他愛ない遊びだったのだろう。これでは、森下の賭け事好きはわかっても、彼が、本当に、自殺したのかどうかの決め手にはならない。  森下は、死んだ時、十七万二千円の金を持っていた。芸者二人の花代は、すでに支払っていたから、追いつめられての死という感じはなかった。と、いって、だから自殺はおかしいということにもならないのだ。何しろ、所属プロダクションや、サラ金に、莫大な借金があったことは、事実だからである。 「彼が、死にたいみたいなこと、口にしたことはなかったんだね?」  と、十津川は、確認するようにきいた。 「私は聞いてないけど、ここの仲居さんが聞いたみたい」  と、清乃は、いった。 「何という仲居さん?」  と、亀井が、きく。 「八千代さん。呼びましょうか」  と、清乃はいい、その仲居をわざわざ呼んでくれた。  四十二、三歳の角張った顔付きの仲居だった。  十津川が、森下健のことを聞くと、彼女は、 「森下さんの顔は、テレビなんかで見ていたので、つい、サインをお願いできますかって声をおかけしたんです」  と、いった。 「その時に、自殺をほのめかせるようなことを、いったんですか?」  と、十津川は、きいた。 「ええ。森下さんは、私に向って、こうおっしゃったんですよ、申しわけないが、今はサインの出来る気分じゃない。死場所を探してるんだって。もちろん、その時は、冗談でおっしゃったんだと思っていましたけど」  と、八千代は、いった。  これでは、自殺するといったとはいえないだろう。十津川は、八千代に向って、 「広瀬克己の場合には、声をかけなかったんですか?」  と、きいた。 「広瀬さん? ああ、最初に昇仙峡で亡くなられた方ですね。あの方には、声をかけてません」  と、八千代は、いった。  どうも自殺の決め手になる話は、聞けなかった。また、逆に、自殺ではないという証拠もつかめなかった。  十津川は芸者の清乃に、何か思い出したら電話をくれるように、自宅の電話番号を書いて渡した。  十津川は翌日、亀井と東京に戻った。昇仙峡に出かけて、他殺の証拠はつかめなかったが、その景色を自分の眼で見たことは、プラスだったと思った。  警視庁に帰ると、西本と日下が、十津川の留守中に調べておいてくれたことを報告した。  西本たちには、死んだ広瀬と森下のことと、保険金の受取人について調べさせていた。 「広瀬も森下も、借金が返せず、追いつめられていたことは、間違いありません」  と、西本がいい、日下はそれを具体的に、 「広瀬は会社の金を使い込んでいて、会社側から告訴されかかっていましたし、森下の方は、警部もご存じのように、暴力金融にも借りていたので、殴られたこともあります」 「自殺しても、おかしくはないか?」 「はい」 「女の方はどうなんだ?」 「広瀬夫婦は、最近仲がよくなかったようです。恋愛結婚だったということですが、広瀬が莫大な借金をするようになってから、愛想をつかしていたと思われます。だから、夫の広瀬が死んだと聞いたときも、涙を流さなかったという話です」 「森下の方は?」 「高田久美子も、森下のバクチ狂いに嫌気がさしていたようです。友人に、別れたいと洩《も》らしていたそうですから」  と、日下は、いった。 「しかし、今度、保険金が手に入ったわけだ。彼女たちの手に、実際にはいくらぐらいの金が入ったんだ?」 「借金の返済がありますからね。広瀬保子の場合は、三億円の保険金が支払われましたが、彼女の手に残ったのは、八千万円ほどだと思われます」  と、西本は、いった。それに続けて日下が、 「高田久美子の場合は、約九千万円です」  と、いった。 「それでも、少い額じゃないな」  と、十津川は、いった。 「もし、彼女たちに殺人の動機があるとすれば、この金だと思いますが」  と、西本が、いった。 「夫には愛想をつかしているが、別れても借金を抱えているから、慰謝料はとれない。幸い、夫は生命保険に入っているし、受取人は自分になっている。だから、夫が死ねば、おりた保険金で借金を払っても、何千万か残る。動機としては十分ですが、どうやって殺したかですね」  と、亀井は、いった。 「二人の女には、アリバイがあるから、殺人なら、誰かに殺させたことになる。彼女たちの周囲に、それらしい人間がいたかね?」  と、十津川は、西本と日下にきいた。 「若い高田久美子は、森下に愛想をつかすようになってから、行きつけのスナックで知り合った男と、つき合うようになっていました。パチンコ店の二十七歳の店員で、名前は浅川良治という男です」  と、西本が、いった。 「その男のアリバイは?」 「森下が死んだ日は、間違いなく仲間と一緒でした」 「アリバイありか?」 「そうです」 「広瀬保子の方は、どうだ?」 「殺しを頼めるほどの友人はいませんね。兄と弟はいますが、彼等にはちゃんとしたアリバイがありました」 「参ったな」  と、十津川は呟《つぶや》いた。  そのあと、三上刑事部長に呼ばれて行くと、本多捜査一課長も部長室にいた。 「山梨へ行って来て、結果はどうだったね?」  と、三上が、きく。 「他殺の疑いは、いぜんとしてぬぐい切れません」 「証拠は見つかったのかね?」 「残念ながら、見つかりません」 「では、もうこの事件の捜査は止《や》めたまえ」  と、三上は、いった。それに続けて、本多一課長が、 「実は、山梨県警から、質問の電話が入ったんだ。形は質問だが、苦情といってもいい。なぜ、本庁の刑事が、すでに解決した事件を調べているのかという質問だよ」  と、いった。  多分、Kホテルの人間が、県警に話したのだろう。 「こちらとしては、事件を捜査する気はないと、返事をしておいたよ。確固とした証拠もなしに、これ以上、山梨の事件を捜査するわけにはいかないからね」  と、三上は、いった。 「わかりました」  と、十津川も、肯くより仕方がない。もともと山梨県警の事件だし、状況証拠は二つとも自殺を指していたからである。      4  翌一月二十七日の早朝、井の頭公園で、男の死体が発見された。  寒い朝で、東京では珍しく、霜柱が立った。公園の中の池の傍に、若い男は背中を刺されて死んでいた。  十津川は、「君の事件だ」といわれて現場に駈けつけたのだが、被害者の名前を知って、その理由が呑み込めた。  被害者は、浅川良治、二十七歳。渋谷のパチンコ店「グッドラック」の店員だった。  森下健の内縁の妻、高田久美子がつき合っていた男である。  西本と日下の両刑事が、彼に会って、森下が死んだ日のアリバイを聞いている。 「例の事件との関係で、殺されたと思われますか?」  と、亀井が、十津川にきいた。 「今のところ、何ともいえないな。動機がわからないからね」  十津川は、慎重ないい方をした。先入観を持つのは、危険だったからである。  死体の下には、霜柱が見られないから、殺されたのは多分昨夜のうちだろう。検死官は、昨日二十六日の真夜中頃だと、十津川に、いった。  革ジャンパーのポケットに入っていた運転免許証によれば、自宅はこの近くのマンションである。  十津川は、西本たちに、浅川の働いていた渋谷のパチンコ店を調べるように命じておいて、亀井と、浅川のマンションに足を運んだ。  1Kの狭い部屋だった。  乱雑な中に、競馬の予想紙などが散らばっていた。調度品がほとんどないのに、管理人に聞くと、近くの駐車場に、中古だが、ポルシェ911を置いてあるということだった。 (金もないのに、ぜいたくな生活をしたがっていたということか?)  と、十津川は、思った。  部屋の隅に電話があったが、その前の壁にサインペンで、  〈二十六日。午後十時。井の頭、池の傍。タケウチ〉  と、書きなぐってあるのを見つけた。 「これは、犯人との約束でしょう。十時に井の頭公園に出かけて行って、殺されたんだと思いますよ」  と、亀井が、眼を輝かせていった。 「すると、タケウチというのは、相手の名前かな?」 「多分そうでしょう。犯人の名前ですよ」 「だが、どこの、何をしているタケウチか、わからんな」  と、十津川は、いった。タケウチは、どんな字を書くのだろうか? 竹内か、それとも、武内か。 「被害者のことを調べていけば、自然に、タケウチという人物が浮んで来ると思いますよ」  と、亀井は、楽観的ないい方をした。  高田久美子の周辺を調べに行った西本と日下は、二つの報告をもたらした。一つは十津川を喜ばせ、もう片方は、十津川をがっかりさせた。  十津川を喜ばせたのは、一月二十三日に、浅川と思われる男が久美子のマンションにやってきて、怒鳴り合いをしているのを、隣家の住人が聞いているというものだった。 「その隣人の話では、男が、金を出せと怒鳴っていたそうです」  と、西本が、いった。 「金か」 「恐らく、森下の保険金のことじゃありませんか? 九千万近く入ったのを知って、少しよこせと、押しかけたんじゃないかと思います」 「それで、久美子は、いくらか、浅川に渡したんだろうか?」 「わかりませんが、男はドアを蹴飛《けと》ばすようにしてその日は帰ったらしいですから、渡さなかったんじゃないかと思います」  と、日下が、いった。  もう一つは、久美子のアリバイに関することだった。  一月二十六日は、夕食を午後六時から、女友だちと六本木でとり、そのあと、これも友人で、現在クラブのママをやっている女のところへ押しかけ、午前一時近くまで、飲んでいたというのである。 「それは確認をとったのか?」  と、亀井が、西本と日下にきいた。 「もちろん確認はとりました。夕食をとったレストランに行き、確認しました。夕食のあと久美子が飲みに行ったのは、六本木の『トモロウ』というクラブですが、ここで久美子が、友人のママや、野球選手のS、タレントのNなどと一緒に飲んだというので、彼等にも会って、それを確かめました」  と、西本は、いった。 「高田久美子には、アリバイありか」 「そうです」  と、日下が肯いた。 「もう一度、久美子の周辺を調べて、タケウチという人間がいないかどうか、調べてみてくれ」  と、十津川は、二人にいって、送り出した。  そのあと今度は、清水刑事と北条早苗刑事に、浅川良治の周辺を調べ、タケウチという人間がいないかどうか確かめるように、指示した。  捜査本部が設けられ、浅川の死体は解剖のために大学病院に、運ばれた。  西本と日下が戻って来たのは、夜になってからである。 「高田久美子の周囲に、タケウチという名前の人間はいませんね。彼女自身がそういっているだけでなく、彼女の友人たちに聞いて廻ったんですが、タケウチという人物は知らないといっています」  と、西本は、いった。 「浅川と、金のことでケンカしたことは、久美子は認めているのかね?」  と、亀井が、きいた。 「最初は、否定していましたが、マンションの隣室の人間の証言があるというと、やっと認めました。一月二十三日に浅川がやってきて、森下の保険金ががっぽり入った筈だ、一千万ばかり貸してくれ、といったそうです。断ると、殴られたといっています」  と、日下が、いった。 「なぜ、久美子は、否認したんだろう?」  と、十津川が、首をかしげた。 「それは、浅川が殺されたので、自分が疑われるのを、恐れたからだと思いますが」 「しかし、彼女には、確固としたアリバイがあったわけだろう?」 「それはそうなんですが──」  と、日下は、いった。  少し間をおいて、清水と北条早苗が、戻ってきた。 「浅川の周辺に、タケウチという人間は、いませんね。彼が働いていた渋谷のパチンコ店に武田という同僚がいますが、この男は事件に無関係です。彼には妻子がいて、一月二十六日の夜は、店の閉店のあと、売りあげの計算をし、自宅に帰ったのは十二時を過ぎていたそうです。これは、妻と七歳の子供が証言しています」 「この日、浅川は店にいなかったのか?」  と、十津川は、きいた。 「二十六日は、浅川は休んでいたそうですわ」  と、早苗が、いった。 (休んで、二十六日の午後十時に、浅川は井の頭公園にタケウチに会いに出かけたのか?)  と、十津川は、考えた。そう考えるのが自然だろう。  翌日、浅川の解剖結果が出た。  死亡推定時刻は、二十六日の午後十時から十一時ころで、死因は、背後からナイフで刺されたことによる出血死。ナイフで、三ヶ所刺されているが、凶器のナイフは発見されていない。  犯人は、凶器を公園の池に捨てたのではないかということで、池を浚《さら》っているが、まだ見つかってはいない。 「どうもおかしいな」  と、十津川は、呟いた。 「何がおかしいんですか?」  と、亀井が、きいた。 「アリバイさ」  と、十津川は、いった。 「誰のアリバイですか?」 「高田久美子のアリバイだよ。一月十九日の夜に森下健が昇仙峡で死んだときも、一月二十六日夜に井の頭公園で浅川が殺されたときも、彼女には確固としたアリバイがあった」 「ええ。西本刑事たちが調べたところでは、間違いのないアリバイです」 「カメさん。うまく出来すぎていると思わないかね?」  と、十津川は、いった。 「確かに、そういえば、そうですが──」 「ウィークデイの夜のアリバイだよ。しかも、久美子は独身だ。夜のアリバイなんかないのが普通だろう? ところが久美子は、二回ともがっちりしたアリバイがあった。おかしいと思わないか?」 「彼女は、その日の夜、殺しが行われるのを知っていて、アリバイを作ったということですか?」  と、亀井が、きいた。 「そう考えると、おかしくはなくなってくる」  と、十津川は、いった。 「浅川殺しの場合は、タケウチという人間がいますから、これが犯人で、久美子はそれを知っていて、アリバイを作ったということは、考えられますが」 「昇仙峡の事件は、別だということかね?」 「そうです。自殺の線は、まだ崩れませんし、もし昇仙峡の事件で、高田久美子のアリバイを問題にするとなると、同じく昇仙峡で死んだ広瀬について、妻の保子のアリバイを問題にしなければなりません」  と、亀井は、いった。 「私も、問題にしたいと思っているよ」  と、十津川は、いった。 「どんな風にですか? 自殺ではないという反証は、見つかっていませんが──」 「ああ、わかっている」  と、十津川は肯いてから、 「カメさんと、先日昇仙峡に行ったよね。あの日は、やたらに寒かった。私は風邪をひいてしまったよ」 「確かに、寒かったですね」 「あの日、遊歩道を寒さにふるえながら歩いていて、私は考えたんだよ。なぜこんな寒い所で、自殺したんだろうかとね。帰ってから、一月十一日と十九日のあの辺りの気候を調べてみた。ひょっとして、異常に暖かかったのではないかと思ってね。しかし、二日とも、寒かったとわかった。特に十九日の夜は、零度以下になっていたそうだよ」 「まあ、自殺する人間に、暑いも寒いもないと思いますが──」 「それに、二人はどうやって、湯村温泉から昇仙峡まで行ったのか」 「山梨県警の話では、二人を乗せたタクシーは見つからなかったので、歩いて行ったんだろうということでしたね」 「そうだよ。零度以下の夜、森下は、寒さにふるえながら、わざわざ、ホテルから昇仙峡まで歩いて行って、自殺したんだ」 「それは、なかなか自殺する決心がつかないので、迷いながら歩き続けて、気がついたら昇仙峡へ来ていたということじゃなかったんですかね。あり得ないことじゃないと思いますが」  と、亀井は、いった。 「カメさんは自殺説か?」 「いえ。違いますが、自殺として説明できてしまうところが、問題だと思っているんです」 「なぜ、昇仙峡なのかなあ」  と、十津川は、呟いた。 「なぜ、死場所として、昇仙峡を選んだかということですか?」 「そうだよ。たて続けに、二人もの人間がだ。広瀬にしても、森下にしても、郷里が山梨というわけじゃない」 「それは、この間もいいましたように、東京に近くて、景色のいい場所だからじゃありませんか?」  と、亀井が、いった。 「それなら、他にも沢山あるじゃないか。伊豆の海岸だって、東京から近い。三浦半島だってある。富士五湖だってある」 「それは、そうなんですが──」 「片方が、伊豆の海で自殺し、もう一人が昇仙峡で自殺したというのなら、まだ納得できるんだがね。二人とも昇仙峡なんだ」 「それに、同じ湯村温泉の、同じKホテルに泊っています」 「カメさん。Kホテルに電話してみてくれないか」 「広瀬と森下と同じ時に、同じ人間がKホテルに泊っていなかったかどうかですね」 「やはり、カメさんは話が早い」  と、十津川は、いった。  亀井は、すぐ、Kホテルに電話して、しばらく聞いていたが、受話器を置くと、十津川に、 「駄目ですね。共通の泊り客はいないという返事です。念のために、一月十一日前後と十九日前後の泊り客のリストを、送って貰うことにしましたが」  と、がっかりした表情で、いった。 「タケウチという泊り客はいなかったか?」 「いません」  と、亀井は、いう。  十津川は、また昇仙峡のことを思い出していた。  湯村温泉のKホテルから昇仙峡まで、車で十二、三分だろう。歩けば四、五十分か。  広瀬は、早朝、ホテルから歩いて行って昇仙峡に身を投じ、午後、死体で発見された。  森下は、深夜、寒さにふるえながら、暗い道を昇仙峡まで歩いて行ったことになる。  亀井は、死を考えながら歩いていたのだろうから、寒さは感じなかったのではないかという。そうかも知れないが、やはり、十津川は疑惑を感じてしまうのだ。  広瀬も、森下も、まるで蟻地獄に引き込まれるように、昇仙峡に誘われて、死んだみたいではないか。  Kホテルの七階に泊っていたのだから、窓から身を投げても死ねたのだ。しかも、窓の下には湯川が流れていたのに。  なぜ、昇仙峡でなければならなかったのか? (しかし、他殺としても、同じ疑問は残るのだ)  と、十津川は、思った。  なぜ、昇仙峡で、殺したのか?  なぜ、湯村温泉のKホテルに泊らせたのか?  その二つの疑問は、やはり、ついてくるのだ。そして、他殺を主張するにしても、この疑問に対する答を見つけなければならない。  翌日、開かれた捜査会議で、十津川は、井の頭公園で起きた殺人事件は、昇仙峡の事件と関係があると思うと主張した。 「従って、今回の事件だけ切り離して、捜査することは出来ないと思いますし、切り離して捜査することは、捜査が間違った方向へ行ってしまう恐れがあると思います」  と、十津川は、いった。  捜査本部長になった三上は、当然、反対した。 「これといった証拠もなしに、そう断定するのは、それこそ捜査を誤らせるものじゃないかね? 第一、山梨県警の協力は期待できないだろう?」  と、三上は、いう。 「もちろん、今の状況で、山梨県警の捜査協力は期待できないことは、覚悟しています。しかし、今回の事件は、昇仙峡の事件とのつながりで考えるべきだと、私は信じていますし、そうすることで、解決できると考えています」  十津川は、頑固にいった。 「しかし、信じているだけで、捜査を進められては困るね」  三上は、渋面を作って見せた。 「二つの事件には、奇妙な類似点が見られます」  と、十津川は、いった。 「どんなところかね?」 「もっとも疑われる人間、高田久美子に、強固なアリバイがあることです。昇仙峡で森下が死んだ時も、夜おそくですし、浅川が井の頭公園で殺された時も、深夜です。普通なら、アリバイがあいまいな方が自然なのに、久美子は前もって計画していたみたいに、強いアリバイを持っているのです。どうしても、作られたアリバイだと、思わざるを得ません」  と、十津川は、いった。 「それで、君は、どんな推理を持っているのかね?」 「彼女には共犯者がいて、その人物が、昇仙峡では自殺に見せかけて森下を殺し、井の頭公園で浅川を殺したのではないかと、私は思っています」 「証拠は?」 「あれば、彼女を逮捕しています」 「共犯者は誰《だれ》なんだ? 目星がついているのかね?」 「わかりません。タケウチという人物ではないかと思いますが、どこの誰かわかりませんし、偽名かも知れません」 「どうも、頼りない話だな」 「しかし、捜査は、この線で進めるつもりです」  と、十津川は、いった。      5  結局、本多一課長が、妥協案を持ち出し、一週間だけ十津川の捜査方針で進み、それで事件が解決しなければ、捜査方針を改めることになった。  もちろん、同じ十津川が、平気な顔で違う捜査を続けることが出来るわけはない。当然、交代ということになるだろう。三上本部長もそのつもりだろうし、十津川もそのつもりである。  一週間以内に解決しろと、命令されたのと同じなのだ。  亀井や他の刑事たちも、同じ気持になっていた。 「大丈夫ですか?」  と、亀井がきいたのは、そのことがあるからだろう。十津川は微笑して、 「これで、やり易くなったよ」  と、いった。 「全力で、もう一度聞き込みをやってみましょう。タケウチという人間が、見つかるかも知れません」 「その前に、今回の事件を、私は大胆に推理したいと思っている。一週間以内と限定されているから、地道にこつこつというわけにはいかないし、もともと私は、井の頭の殺人が昇仙峡の事件と関係していると思っているし、向うの事件は殺人と思っている。それで捜査すると主張したんだから、他の推理は考えないことにする」  と、十津川は、自分の考えを口にした。 「どんな推理をされますか?」  と、亀井が、きいた。 「私はね、昇仙峡の二つの事件と、井の頭の殺人の三つは、同一犯人だと思っている」 「しかし、広瀬と森下は、いくら調べても関係は出てきていません。広瀬保子と高田久美子も、同じです。二人の間に、接点は見つかりません。それなのに、共通の人間がいて、それが昇仙峡で、広瀬と森下を、自殺に見せかけて殺したわけですか?」  亀井がいって、十津川を見た。 「そうだ」  と、十津川は力を籠《こ》めて、いった。 「そこが、私にはよくわからないのですが」  と、亀井が、首をかしげる。 「もう一つ、私が確信しているのは、遺書のことだ。あの遺書は、私が犯人と思っている人間が見本を作り、それに合せて、広瀬と森下に書かせたものに違いないんだ。だから細部が違っていても、二つの遺書は、全体の調子が同じに見えるんだと思っている」 「しかし、広瀬と森下が、見本を示されて、よく遺書を書きましたね。どうやって、書かせることに成功したんでしょうか?」  と、亀井が、きく。 「それは、私にもわからない。が、この推理は間違っていないと思っている」  と、十津川は、これも力を籠めていった。 「他に、警部が確信していることがありますか?」 「犯人は男だ」 「浅川を、ナイフで刺して、殺しているからですか?」 「それもある。浅川は、かなり体格のいい男だ。その浅川をナイフで刺して、殺している。かなり力が強い。それに、昇仙峡の事件が殺しとすれば、二人の男を水死させたことになるからね」 「ふいをつけば、女でも突き落せるんじゃありませんか?」  と、亀井は、きいた。 「いや、私は、突き落したとは思っていないんだ」 「と、いいますと?」 「自殺なら、仙娥滝に飛び込んで死んだんだと思うが、殺しなら、突き落したとは思わない。ひょっとして、助かってしまうかも知れないからだ。犯人としては、確実に溺死させなければならないよ」 「としたら、仙娥滝から突き落したんじゃなくて、昇仙峡の渓谷のどこかで、犯人は無理矢理広瀬と森下を、水に沈めて溺死させたということですか?」  と、亀井が、きいた。 「私は、そうしたと思っている。だから、犯人は男だと信じているんだよ。その二人に抵抗され、身体に外傷が出来ても構わない。仙娥滝に投身自殺して渓谷に流されれば、身体に傷がつくのが当然と思われるからね」  と、十津川は、いった。 「動機は、金ですか? 二人の保険金?」 「他に考えようはない」  と、十津川は亀井にいってから、他の刑事たちを集めて、今、亀井に話したことを、繰り返した。 「それで、君たちにも考えて貰いたいんだ」 「何をですか?」  と、西本が、きく。 「今、それを黒板に書く」  と、十津川は、いった。 [#ここから1字下げ、折り返して2字下げ] ○広瀬と森下、広瀬保子と高田久美子の間には、何の接点もない。だが、犯人は同一人である。犯人と四人とは、どんな接点があるのだろうか? ○なぜ、昇仙峡なのか? なぜ、湯村温泉のKホテルなのか? ○どうやって、広瀬と森下に遺書を書かせることが出来たか? [#ここで字下げ終わり] 「この三つの疑問について、解答を考えて貰いたい」 「井の頭公園の事件の方は、何も考えなくていいんですか?」  と、西本が、きいた。 「あの事件は、昇仙峡の事件がなければ、起きなかったと思っている。森下が死んで、高田久美子に保険金が入ったので起きた事件だ。犯人も同一人だと思っているから、ここに書いた三つの疑問に答が出れば、自然に井の頭公園の犯人も解決する。だから、みんなで、この三つの疑問に対する答を見つけて欲しい」 「捜査は続けなくていいんですか? 聞き込みを続けなくていいんですか?」  と、日下が、不安気にきいた。 「構わないよ。一週間のうち、二日でも三日でも、この疑問を考えていいと思っている。答を見つけることが出来たら、あと四、五日で事件は解決できると、信じているからだよ」  と、十津川は、はっきりといった。  続けて十津川は、自由に、勝手に発言して貰いたいと、部下の刑事たちに告げた。      6  まず、第一の疑問から始めた。刑事たちが勝手に意見を出し、十津川は眼を閉じてそれを聞いた。  なかなか、十津川を納得させるような意見が出て来ない。その中に、犯人は傭《やと》われた殺し屋ではないかという意見も出た。それをいったのは、日下だった。 「広瀬保子も、高田久美子も、広瀬と森下に愛想をつかしていました。別れたいが、金が手に入らない。広瀬も森下も、大きな借金を抱えてしまっていたからです。頼みは生命保険しかありません。それなら、殺せばいい。借金を払っても、何千万かの金は残ると計算し、まず、広瀬保子が殺し屋に頼んだ。続けて、高田久美子がというのは、どうでしょうか?」 「殺し屋ねえ」  と、十津川は、呟く。 「十年以上前なら、殺し屋という職業は、絵空ごとだったでしょうが、最近は、金を貰って殺しをやる人間が、時々新聞を賑わせています。どんなルートを使ったかはわかりませんが、まず、保子が金で殺し屋を傭い、夫の広瀬を殺させたのじゃないでしょうか。そして久美子も、同じ男を傭った。同一人になったのは、ルートが同じだったからではないかと思います」  と、日下は、いった。 「しかし、保子は、一流企業であるR精工の重役夫人だよ。経歴を調べても、裏の世界の人間と、接触があったとは思えない。そんな女性が、殺し屋に結びつくルートを知っていたとは思えないがね」  と、十津川は、いった。 「しかし、警部。犯人は、金を貰って、広瀬を殺し、森下を殺しているんです。プロの殺し屋ではなくても、金を貰えば平気で殺しをやる人間なんです。何かルートを知ってなければ、そんな人間を傭うことは出来ないんじゃありませんか?」  と、日下が、抗議する調子でいった。 「確かに君のいう通りだ」  と、十津川は、肯いた。が、続けて、 「広瀬保子が、そんなルートを知っていたとは、どうしても信じられないね。その上、高田久美子が同じルートを使って同じ男を傭ったとは、余計信じられないんだよ」 「じゃあ、どうやって、傭ったんですか?」 「売り込みじゃないかしら?」  と、北条早苗が、口を挟んだ。  十津川は、彼女に眼を向けて、 「それは、どういう意味かね?」 「警部は、今、広瀬保子が、そんな裏のルートを知っているわけがないといわれましたわ。でも、彼女は確かに金を渡して、夫を殺させ、保険金を手に入れたわけでしょう? それなら、相手が売り込みに来たというケースしか考えられませんわ」  と、早苗は、いった。 「バカげてるよ」  と、日下がいった。が、十津川は、 「待ちたまえ」  と、日下を制しておいて、 「意外に、当っているかも知れないな」 「なぜ、そう思われるんですか?」  と、西本が、きいた。 「広瀬保子と、高田久美子の二人について、いくら調べても、それらしい人間は浮んで来なかったことは、君たちも知っている筈だ。だが、誰かが、彼女たちに金を貰って、昇仙峡で広瀬と森下を殺している。となると、売り込みということも、あながちバカげた考えともいえないんだよ」 「具体的に、どういうことになりますか?」  と、日下が、きいた。 「その男を、タケウチとする。彼は鼻が利く男で、どんな調べ方をしたのか、広瀬と森下のことを知った。莫大な借金を抱えているが、多額の保険に入っていて、しかも妻や、女が、夫や恋人に嫌気がさしているケースだとわかると、男は、巧みに話を持ちかける。五百万なり、一千万くれれば、自殺に見せかけて夫や、恋人を殺してやると。保子と久美子は、その誘いにのって、オーケイを出したんじゃないかな。男は、どうやったかはわからないが、広瀬と森下に遺書を書かせ、昇仙峡に誘い出して殺し、保子と久美子はまんまと保険金を手に入れ、その中から、今いったように、五百万なり一千万を男に払ったんじゃないか。そう考えれば、彼女たちの友人知人をいくら調べても、犯人らしい人物が浮んで来なかった説明がつくと思うがね」 「保子と久美子が、その男の誘いにのったのはわかりますが、広瀬と森下もその男を信用したという理由がわかりません。信用したからこそ、遺書を書いたり、湯村温泉に行き、Kホテルに泊ったんでしょうから」  と、清水刑事が、疑問を口にした。 「その点は、どう考えるね?」  と、十津川は、早苗にきいた。 「その男が、社会的に信用できる人間だったのかも知れませんわ」  と、早苗は、いった。 「しかし、殺し屋みたいな男が、社会的に信用できるというのは、考えにくいんじゃないの?」  と、日下が、早苗にきいた。 「男に、表の顔と裏の顔があるんじゃないかしら」 「どんな風にだい?」  と、なお、日下がきく。 「人に信用される職業を、今考えてみたんだけど、例えば医者、教師、警察官、弁護士といった職業の男なら、信用されるんじゃないかしら?」  と、早苗は自問する形で、いった。 「そんな人たちが、果して自分から売り込んで、殺人までやりますかね?」  清水が疑問を投げる。 「どんな職業にだって、例外はあるわ」  と、早苗は、いう。 「その通りだ」  と、十津川は、肯いてから、 「だが、ただ世間的に信用される職業というだけでは、今度の相手は納得できないんじゃないかね。なぜなら、保子や久美子には、夫たちを殺してくれる人間だと信じさせなければならないし、逆に広瀬たちには、いわれるままに遺書を書くほどの信頼を寄せられる人間でなければならないからだ」 「教師は駄目でしょう。世間的な信用はあっても、殺しを請け負うような信頼はないから」  と、亀井が、いった。 「医者も同じだと思いますね」  と、いったのは、西本だった。 「残るのは、警察官と、弁護士ですね」  亀井が、複雑な眼で、十津川を見た。 「警察官も駄目だな」 「身びいきですか?」 「そうじゃない。確かに、殺しを扱う刑事なら、夫たちを殺してくれることは信じるかも知れない。しかし、例えば広瀬みたいな大企業の重役は、刑事を信用するだろうか?」 「そうですね。われわれは、敬して遠ざけられる口ですね」  と、亀井が、苦笑した。 「残るのは、弁護士ですけど」  と、早苗が、いった。 「弁護士なら、借金で苦境に立たされている広瀬と森下は、信用するでしょうね。自分を助けてくれるんじゃないかと思って」  と、西本が、いった。 「問題は、保子と久美子の方ですね。夫たちを殺して保険金をせしめてやるといって、それを信用させられるかですね」  亀井が、いう。 「刑事事件の弁護士なら、信じさせられると思いますわ。いろいろなケースを知っているでしょうし、殺人犯でも無罪にしてしまったみたいなことを話せば、保子と久美子は信頼してしまうんじゃないでしょうか? それに弁護士なら、遺書のことにも、保険金のことにも、詳しいと思いますわ」  と、早苗が、いった。 「よし。それで行こう」  と、十津川は、決断した。 「犯人のタケウチは、弁護士だと決める。いわゆる悪徳弁護士というやつだろう。それに、何か問題を起こした人間だと思う」  と、十津川は、つけ加えた。      7  犯人を弁護士と決めて、次の疑問に進んだ。  なぜ、昇仙峡かという疑問だった。  最初に出た答は、犯人にとって、そこは土地勘があるのではないかというものだった。 「今まで、保子と久美子、或いは死んだ夫たちとの関係で、昇仙峡や、湯村温泉を調べていて、何の関係も出て来なかったんですが、犯人との関係なら、必ず出てくると思いますね」  と、亀井が、いった。 「でも、それは犯人にとって、両刃の剣《つるぎ》になりますわ」  と、早苗が、いった。 「それは、どういうことだ?」  と、十津川が、きいた。 「犯人にとって、土地勘がある場所なら、犯行はしやすいでしょうけど、その代り、現場を調べられると、犯人の名前に辿《たど》りつく危険がありますから」  と、早苗は、いった。 「土地勘がないとしたら、他に、どんな答があるかね?」  と、十津川は、早苗にきいた。 「答は見つかりません」 「それなら、土地勘があるということにしよう」  と、十津川は、いった。が、早苗の言葉は気になっていた。  確かに、両刃の剣なのだ。  それに、犯人の心理を考えてみると、二通りに考えられる。自分のよく知っている土地で、殺人をする犯人もいれば、逆に、知っている土地を避ける犯人もいる。  だが、今のところ、他に答が見つからなければ、この結論にするしかないと、十津川は考え、三番目の疑問に進むことにした。  広瀬と森下に、どうやって、遺書を書かせたかの疑問である。  刑事たちが、何かいい出す前に、十津川は、 「これは、私が答を出そう」  と、いい、続けて、 「犯人が弁護士だとすれば、この疑問には簡単に、答が出てくるよ。広瀬は、会社の金まで使い込んで、追い詰められていた。会社から、告訴されかけていたんだ。森下の方は、サラ金にも借金をし、同じく追い詰められていた。そんな二人に、犯人の弁護士は、猫なで声でこういう。何とか、力になってあげたい。私のいう通りに動いてくれれば、何とか取りなして、告訴を止めさせるし、サラ金の返済も延ばすように出来るとね。相手が弁護士だから信用する。そこで、弁護士は、こう付け加える。とにかく相手に、こちらの誠意を示さなければ駄目だ。このままでは自殺するといえば、相手も告訴を取り止めたり、サラ金も催促に手心を加えるに違いない。それに使いたいので、遺書を書いて貰えないかと。それならば、遺書を書いてもいいと、広瀬も、森下も思った。借金のいいわけの小道具だからだ。ただ、二人とも遺書など書いたことがなかったから、どんな風に書いたらいいかと聞く。犯人はサンプルを示す。それを見て書いたから、二つの遺書は調子が似ているんだ。犯人はそれを受け取り、これをR精工の社長、或いはサラ金会社に見せてくる。向うも、きっと驚いて会社は告訴をやらないだろうし、サラ金も強い催促をしなくなるに違いない。私が話し合いをしている間、近くの温泉に身をかくして、吉報を待ってくれと、犯人はいったに違いない」  と、十津川は、いっきに喋《しやべ》った。 「それが、湯村温泉のKホテルですね」  と、日下が、いう。 「そうだ。予約したのは、多分犯人だろうね。広瀬と森下は、安心してその予約された部屋に入った。若い森下の方は、芸者を呼んでドンチャン騒ぎをしたが、広瀬の方は神妙にして、待っていたんだろう」 「そのあと、犯人は、時期を見て連れ出し、昇仙峡で殺したというわけですね?」  と、亀井が、きいた。 「そうだ。例えば広瀬の場合、犯人は車で湯村のKホテルに行き、朝、広瀬を連れ出した。話がついたから、もう安心しなさい。ついでに昇仙峡でも見に行きましょうといって、連れて行った。そして隙を見て、広瀬を水に沈めて溺死させたんだと思うね」  と、十津川は、いった。 「質問がありますが」  と、清水が、手をあげた。 「いってみたまえ」 「広瀬も、森下もKホテルの同じ七階に泊っています。これは、偶然なんでしょうか?」 「今のところは、偶然としか考えられないね」  と、十津川はいった。 「私も、質問があります」  と、早苗が、十津川を見て、 「犯人が広瀬と森下をKホテルから連れ出して、昇仙峡で殺したわけですけど、どうやってホテルから連れ出したんでしょうか?」 「広瀬と森下は、やはり心配だから、犯人と電話で連絡をとっていたんだろう。そこで、犯人は何日の何時頃車で行くから、ホテルの外へ出て来てくれ。その時、どうなったか説明すると、いったんじゃないかね」  と、十津川は、いった。 「犯人は、ホテルの外で車で待っていたんでしょうか?」 「そう思うが、何かおかしいかね?」 「犯人がホテルに入らないと、遺書を部屋に置けませんわ」  と、早苗は、いった。 「そうか、遺書を部屋に置いておかなければいけなかったんだ。それなら、犯人は、ホテルの二人の部屋まで行き、隙を見て遺書をテーブルの上においてから、二人を外へ連れ出したことになってくる」  と、十津川は、いった。  だが、それだけでは不安なので、 「明日、北条刑事と清水刑事にKホテルに行って、広瀬と森下が泊っている間に外へ電話しなかったか、また、外から電話がなかったかなども調べてきて欲しい。それから、二人が七階に泊ったのは、偶然かどうかもね」  と、命じた。  その後に、十津川は言葉を続けて、 「残りの者は、問題の弁護士を探す。最近問題を起こしているとか、評判が悪いとかいう弁護士だ」      8  北条と清水の二人の刑事が湯村温泉に出発したあと、十津川は、西本と日下にはもう一度保子と久美子の行動を調べに行かせ、彼自身は亀井と弁護士会館を訪ねることにした。  事務局で、まずタケウチという弁護士がいるかどうか、聞いてみた。 「いますよ」  と、事務局員は、あっさりといった。 「いるんですか?」 「ええ。竹内士郎先生です」 「どんな方ですか?」  と、十津川は、きいた。 「年齢は確か六十二歳の筈です。温厚で、信用のある先生ですよ。四谷に法律事務所を持っておられます。その先生が問題を起こすとは、考えられませんが──」  と、事務局員は、いった。 「カメさん、会いに行ってみよう」  と、十津川は小声で、亀井にいった。 「しかし、われわれの探している人間とは、違う感じですよ」 「だが、タケウチという名前が、気になるんだ」  と、十津川はいい、亀井と四谷の竹内法律事務所に廻ってみた。  JR四ツ谷駅から四谷三丁目の方向に、七、八分歩いたところにあった。ビルの二階で、数人の所員が働いていた。  竹内は、小柄で、髪がうすくなったのを気にしている感じだった。  頭に手をやりながら、十津川に、 「本庁の刑事さんが、弁護士の私に、何の用ですか?」  と、きいた。 「いわゆる悪徳弁護士という人物を、探しているんです。それで、先生のお力をお借りしたいと思って、伺ったんです」  と、十津川は、いった。 「私がなぜ、あなたの力になれると、思われたんですか?」 「実はその男は、先生の名前を使っているようなのです。タケウチと、名乗っていますから」 「私の名前を、使っている──?」 「はい」 「私の名前をねえ」 「心当りは、ありませんか?」 「一人だけ、心当りがありますよ」  と、竹内は、いった。 「その人のことを、教えて下さい」  と、十津川は、いった。  竹内は、机の引出しを探した。一枚の名刺を見つけて、それを十津川と亀井に差し出した。  〈竹内法律事務所 弁護士 平川栄〉  と、あった。 「平川ですか。ここの事務所の方なんですか」  と、十津川は、いった。 「馘《くび》にした男です。多分、それを恨んで、私の名前を使って悪いことをしているんだと思いますね」  と、竹内は、いった。 「この平川栄という人のことを、詳しく話してくれませんか」  と、十津川は、いった。  竹内は、若い所員に声をかけ、一年前に全員で撮ったという写真を持って来させて、 「後列の左端が、平川です」  と、いった。 「背の高い人ですね。大きな人だ」 「大学時代、柔道をやっていた男です。年齢は四十歳」  と、竹内は、いった。 「なんで、先生は、馘にしたんですか?」 「弁護を引き受けた被告人の家族を脅したんですよ。そして、金を貰った。本人は、勝手に大金をくれたんだといっていましたがね。そんな筈はない。だから、やめて貰いました」  と、竹内は、いった。 「そんなことを、前にも、やっていたんですかね?」 「その後、いろいろと噂が耳に入ってきました。弁護士というのは、人の秘密を知るチャンスが多いんです。平川は、その秘密をタネに、何人かの人をゆすっていたようです。呆《あき》れた男です」  と、竹内は、吐き捨てるようにいった。 「住所を教えてくれませんか」  と、十津川は、いった。  十津川は、住所を手帳に書き込み、平川の写真を借りて、その事務所を出た。  教えられた住所は、中野のマンションだった。十津川は亀井と、パトカーで中野に向った。  駅近くのマンションの506号室に、「平川」の名札があったが、部屋の主はいなかった。管理人は、 「平川さんは今朝早く、車でお出かけになりましたよ」  と、教えてくれた。 「行先は、わからないかね?」  と、亀井は、きいた。 「わかりませんが、帰るのは明日になるとは、おっしゃっていましたよ」  と、管理人は、いった。 「逃げたんでしょうか?」  亀井がパトカーに戻ったところで、十津川にきいた。 「われわれがマークしたことなんか知らない筈だよ。逃げたとは思えないね」  と、十津川は、いった。  二人はいったん、捜査本部に戻った。その直後に、湯村温泉のKホテルから、北条早苗が電話をかけて来た。 「いくつか、わかったことを報告します。予約は男の声の電話で行われて、その時、広瀬の場合も森下の場合も、七階の部屋にして欲しいといったそうです」  と、早苗は、いった。 「偶然じゃないのか?」 「違います。七階の部屋を二度とも指定したそうですわ」 「他には?」 「広瀬も森下も、部屋から外に電話をかけたことは一度もなかったし、外からかかってきたこともないそうです」 「ちょっと意外だったな」 「はい。それから、フロントや仲居さんなんかに聞いて廻ったんですけど、一月十一日の朝、フロント係は広瀬がホテルを出て行くのを見ていたことがわかりました。フロント係はその時、広瀬はひとりだったので、散歩に出たのだと思ったそうですわ。その後、彼が昇仙峡で死んだと知って、びっくりしたそうです」 「森下のケースは?」 「これは夜おそくだったので、誰も彼がホテルを出たのを見ていないそうですわ」  と、早苗は、いった。  これも、十津川の予想とは違った答だった。 「もうしばらく、清水刑事とそこにいてくれ」  と、十津川は早苗にいって、電話を切った。  広瀬保子と高田久美子の周辺を調べていた西本と日下が、戻ってきた。 「久美子の方は何もわかりませんでしたが、保子の方は、家の前に同じ車が二日続けてとまっているのを、目撃した人がいました」  と、西本が、報告した。 「どんな車だ?」  と、十津川は、きいた。 「ニッサン・シーマで、色は銀色《シルバー》、品川ナンバーで、最後の数字が3だったそうです」 「シルバーの、ニッサン・シーマか」 「この持主が、わかればいいんですが」  と、日下がいうと、十津川はニッコリして、 「もうわかっているよ。平川弁護士の車がニッサン・シーマで、色はシルバーだ」  と、いった。  だが、十津川の笑顔はすぐ消えて、彼は考え込んでしまった。  亀井が、そんな十津川に、 「これで、平川がわれわれの想像した犯人の可能性が、出て来たじゃありませんか」  と、声をかけた。 「それはいいんだが、湯村温泉の方がね」  と、十津川は眉を寄せて、いった。 「Kホテルの七階の件ですか? なぜ、広瀬も森下も、七階の部屋に泊ったかということですか?」 「そうだ。犯人が予約したものだと思うが、彼はなぜ七階に拘《こだわ》ったんだろうか?」 「そうですね。確かに、理由がわかりませんね」 「もう一つ、いや二つ、わからないことが出来てしまったよ」 「何ですか?」 「広瀬も森下も、Kホテルに泊ってから、外に電話していないし、外からかかってもいないんだ。犯人としては、絶えず連絡をとっておきたいと思うのに、なぜかね?」  と、十津川は、いった。 「もう一つは、何ですか?」 「私は、犯人が車で迎えに行き、二人の部屋に入って、広瀬と森下を連れ出したのだろうと考えていたんだよ」  と、十津川は、いった。 「違っていたんですか?」 「北条刑事が調べたところ、広瀬はひとりで部屋からおりて来て、ひとりでホテルを出ているんだよ」 「それは、前もって日時を打ち合せておいて、広瀬はホテルを出て行き、外に待っていた犯人の車に乗ったんじゃありませんか?」  と、亀井は、きいた。 「駄目なんだよ。それでは、広瀬の部屋に遺書を置いておけないんだ」  と、十津川は、いった。 「ちょっと、待って下さいよ」  と、亀井は急に表情を変えた。 「それは、こういうことなんじゃありませんか。向うに、犯人の仲間がいるということに」 「仲間がいる?」 「ええ。Kホテルに仲間がいれば、今の警部の疑問は全て、解消してしまうんじゃありませんか」  と、亀井は、いう。 「全ての疑問がか?」 「そうですよ。七階に部屋をとったことも、電話連絡をしなくてもよかった理由も、遺書のことも、全て解決してしまうんじゃありませんか」  と、亀井がいった。  十津川も急に、ニッと笑った。 「そうか。あの女か」 「そうです。あの女です」 「確か、八千代という名前だったね」 「あの仲居だけが、森下が死にたいというのを聞いたと証言していたでしょう。おかしいと思うべきだったんですよ」  と、亀井は、いった。 「あの仲居は七階の担当だったんだな。だから犯人は、広瀬と森下を七階に泊めるようにしたんだ」 「そうですよ。仲居は部屋に自由に入れます。マスターキーを持っていて、お茶を持って来たり、布団を敷いたりしますからね。遺書を置いておくことだって簡単です」  と、亀井が、声をはずませた。 「それに、あの仲居が絶えず、広瀬と森下の様子を犯人に知らせていたから、別に犯人自身が電話しなくてもよかったんだ」  と、十津川は、いった。  十津川はすぐ、湯村のKホテルに電話をかけ、北条早苗を呼んで貰って、 「そのホテルに八千代という仲居がいる筈だ。その仲居を、清水刑事と抑えてくれ」  と、いった。 「その仲居さんが、何かあるんですか?」  と、早苗が、きく。 「共犯の疑いがある」  と、十津川は、いった。 「はい。すぐ身柄を確保します」  と、早苗はいったが、なかなか報告が入らなかった。  十五、六分して、今度は早苗が電話してきた。 「八千代はいません」 「どうしたんだ?」 「このホテルを辞めたそうですよ」 「辞めた? いつだ?」 「二十六日です」 「二十六日? 私とカメさんが帰ってすぐか?」 「はい」 「それで彼女は今、何処にいるんだ?」 「ここを辞めてすぐ、水上温泉のSホテルに移ったということですわ。ここのおかみさんは、向うでも仲居をやるんなら、ずっとここにいたらいいのにと怒っていました」  と、早苗は、いった。 「水上で、同じ仲居をやってるのか」 「はい」 「わかった」  と、いって十津川は電話を切った。が、ふと、ひどく険しい表情になった。      9 「カメさん。水上に行こう」  と、十津川は突然、いった。 「すぐですか?」 「そうだ。とにかく急いで行きたいんだ」  と、十津川は、いった。  パトカーで飛ばすことにした。  西本が運転し、リアシートに十津川と亀井が乗った。  十津川は赤色灯をつけ、サイレンを鳴らさせ、猛スピードで走らせた。 「水上でまた、事件が起きるとお考えですか?」  疾走する車の中で、亀井が十津川に、きいた。 「共犯の八千代が水上温泉に移って、仲居をしている。そして犯人の平川は、車で出かけた。明日にならなければ帰らないと、いってるんだ」  と、十津川は、いった。 「また向うで、自殺に見せかけて、殺人が行われるというわけですか?」 「その恐れがあるんだ。だから、一刻も早く、向うに着きたいんだよ」  と、十津川は、いった。  パトカーは、関越自動車道を、北に向って走る。  東京から水上まで、一六七キロである。十津川は、走る車の中で、水上温泉周辺の地図を広げた。 「近くに、諏訪峡という渓谷があるね」  と、十津川は、いった。 「滝もありますね」  と、亀井も、地図をのぞき込んだ。 「またここで、自殺者が出ることになるのかも知れないよ」  パトカーは、サイレンを鳴らし続け、先行する車を次々に、抜いて行く。  水上インターチェンジから国道に抜ける。午後九時を過ぎていた。  問題のSホテルは、上越線と、水上峡の間に建てられていた。  線路の上に作られた橋を渡ると、そこが、ホテル入口になっている。  十津川たちは、フロントに行くと、警察手帳を示して、 「ここに、宮崎八千代という仲居さんがいますね? 年齢は四十歳くらいの」  と、きいた。  フロント係は、戸惑いの表情で、 「おりますが、それが、何か?」  と、きき返した。 「今、何処にいますか?」 「館内にいる筈ですが、呼んで来ますか?」 「そうして下さい」  と、十津川は、いった。  フロント係の一人が、探しに行ったあと、十津川は、別のフロント係に、 「彼女は、何階を、受け持っているんですか?」 「九階ですが──」 「今、九階に、何人のお客が泊っていますか?」 「農協の団体さんが、八階と九階に分れてお泊りですが、その人数は──」 「いや、団体客は必要ありません。九階に個人で泊っている人だけでいい」 「それだと、今日は、三人です。カップルのお客に、お一人でお泊りの方です」 「その三人は、今、部屋にいますか? すぐ、確認して下さい」  と、十津川は強い眼で、フロント係を見た。  若いフロント係の男は、あわてて電話をかけていたが、 「9012号室のお客さまが、ご返事がありません。お一人の男のお客さまです」  と、十津川を見て、いった。  十津川は、亀井と西本に、八千代が見つかったら捕えておくように頼んであった。フロント係が呼んでくれた仲居と、エレベーターで九階に上っていった。  9012号室は、閉っていた。「富田正様」と、書かれている。  一緒に来た仲居に、開けてくれるようにいった。仲居がマスターキーを持って来て、ドアを開けた。  十津川は、飛び込んで、明りをつけた。  二間続きの部屋で、十二畳の和室には、布団が敷かれていた。  その枕元に、白い封筒がぽつんと置かれていた。  〈M建設株式会社 佐野取締役社長様〉  と、達筆で、表書きがしてあった。  十津川は、緊張した顔で、封を切り、中の便箋を取り出した。 [#1字下げ]〈私は、貴社に長い間、ご恩をこうむりながら、今回自分の不注意により、大きな損害を与え、社会的信用を傷つけ、誠に申しわけございません。いろいろと考えましたが、死をもって、お詫びすることを決意致しました。これで、会社に与えた損害を償えるとも思いませんが、何とぞお許し下さるよう、お願い申しあげます。 [#地付き]富田 正〉  細かいところに多少の違いはあっても、広瀬と森下の書いた遺書と、そのトーンは全く同じなのだ。  十津川は、その遺書をポケットに押し込んで、一階ロビーに降りて行った。  フロントの前で、仲居が一人、亀井と西本に捕っていた。その顔に十津川は見覚えがあった。湯村のKホテルで一度だけ会った、八千代という仲居だった。 「奴は、何処だ?」  と、十津川は、八千代にきいた。  八千代は、青ざめた顔で、 「何のことですか?」 「平川のことだよ。奴は、何処にいるんだ?」 「そんな人、知りません」 「平川は、もう何人もの人間を殺しているんだ。君もわれわれに協力しないと、殺人の共犯になる。終身刑どころか、死刑にだってなりかねないんだ。それをよく、考えてみなさい」  と、十津川は、いった。  八千代は、黙って下を向いてしまった。  十津川は、時間がないと感じて、 「仕方がない。彼女を連れて、諏訪峡へ行ってみよう」  と、亀井に、いった。  亀井と西本が、彼女を引き立てるようにしてホテルを出ると、パトカーの中に押し込んだ。 「嫌です。行きたくありません!」  と、八千代が叫んだ。 「やはり、諏訪峡で、富田という男を殺すんだね?」  と、十津川が、八千代の顔をのぞき込んだ。 「どうなんだ?」  と、亀井も大きな声で、きいた。  八千代が肯く。 「案内するんだ!」  と、亀井が怒鳴った。  八千代は怯えた表情になり、運転席の西本に小声で道を教えた。  パトカーが走り出した。  ホテルの横を流れる水上峡の下流が、諏訪峡である。  地図で見れば、利根川の上流に当る。  ホテル、旅館の姿が見えなくなった辺りから、諏訪峡が始まる。 「止めろ!」  と、急に十津川が叫んだ。  前方に、シルバーの車がとまっているのが見えた。  ニッサンのシーマだった。品川ナンバーで、間違いなく平川の車だった。  十津川は西本に、八千代を抑えておくようにいってから、亀井と二人、懐中電灯を持って、パトカーから飛びおりた。  車道から、渓流沿いの遊歩道に降りて行った。  寒いのだが、十津川も亀井も、その寒さを感じていなかった。  冬の月が、ぼんやりと渓谷を照らし出している。観光客の姿は、全く見えない。  二人は遊歩道を下流に向って急いだ。  なかなか平川たちの姿が見つからない。諏訪峡は、全長三・五キロといわれている。その何処で平川は、富田という男を殺すつもりでいるのだろうか?  ふいに前方に、赤い火が見えた。煙草の火だった。  橋の近くだった。  二人は懐中電灯を消して、足を早めた。  月明りの中に、黒く大きな人影が立っているのが見えた。その人間が煙草を吸っているのだ。  その人影の足下に、うずくまっている人影も見えてきた。  煙草を吸っていた人間が、吸殻を渓流に投げ捨ててから、足下の人間を引きずり始めた。渓流に投げ込む気なのだ。 「平川!」  と、走り出しながら、十津川が怒鳴った。  人影が、ぎょっとした感じで、手を止めた。 「平川! 逮捕するぞ!」  と、亀井が叫ぶ。  相手が急に逃げかかった。  亀井が走る勢いのまま、相手に飛びかかる。だが、投げ飛ばされた。  十津川は内ポケットから拳銃を取り出すと、それで相手を殴りつけた。  相手が呻《うめ》き声をあげて、その場にくずおれた。  亀井が起きあがり、顔をゆがめながら、倒れた相手を見下した。 「大丈夫かい、カメさん」  と、十津川が声をかける。 「大丈夫です。すごい腕力だ」  亀井はいい、懐中電灯をつけた。 「平川だ」  と、確認するように、十津川がいった。  亀井はまだ呻き声をあげている相手に、手錠をかけた。  もう一人の男は、身動きしない。五十歳くらいの男だった。十津川が屈み込んで、その男の手首をつかんだ。 「息はある。救急車を呼んでくれ」  と、十津川は、亀井に声をかけた。      10  男は救急車で病院に運ばれ、意識を取り戻した。  男はやはりM建設の富田正で、五十二歳。営業部長だった。  例のゼネコン問題で、富田は責任をとらされて、営業部長から閑職に降格されている。  富田は二億円の生命保険に入っていた。  三年前に離婚していて、保険の受取人は、最近知り合ったクラブのホステスの中井みゆきになっている。  十津川は富田の回復を待って、事情を聞いた。  富田が話したことは、十津川の推理した通りのものだった。  ある日突然、弁護士の平川が訪れて来て、 「あなたのやったことは、全て会社のためだった。それなのに閑職に追いやられたというのは間違っていますよ。幸い私は、おたくの会社の社長と親しいから、取りなして部長に復帰させたい」  と、話しかけた。  ただ、そのためにはあなたが今回のことで、気力が無くなり、自殺を考えていると、社長に思わせたい。きっと社長もびっくりして、あなたのことを許せる筈だといった。  富田は、いわれるままに遺書を書き、それを平川に渡した。  そのあと、富田は平川の予約してくれた水上温泉のSホテルにチェック・インして、吉報を待った。  今日の夜になって、仲居の八千代が、外に平川弁護士さんが来ていて、大切な話をしたいので、そっと出て来て欲しいといっていますと、伝えた。  それで、富田がホテルを抜け出すと、車で平川が待っていた。  富田が車に乗り込むと、平川は微笑して、 「何とか、うまくいきそうです。社長は、あなたの部長への復帰を考えると、私に明言しましたよ」  と、いった。  富田が、ほっとして礼をいったとたん、いきなり、殴られた。あとはめちゃめちゃに殴られ、気を失ってしまったという。  身体中にあざが出来たが、諏訪峡で死体で見つかれば、急流を流される間についた傷だということになったろう。  東京で、富田の女、中井みゆきが逮捕され、平川にいわれて一千万で富田を殺してくれるように依頼したことを自供した。  広瀬保子と高田久美子の二人も、間もなく自供するだろう。  平川と宮崎八千代とは、彼が湯村温泉のKホテルに遊びに来たときに、関係が出来たらしい。  平川の方は、金儲けの手段として八千代を見ていたらしいが、彼女の方は、いつか平川と東京で暮すようになることを夢みていたようだった。  事件が解決したあと、亀井が十津川に、 「実は昨日、私がいくらの生命保険に入っているか、調べてみました」  と、いった。 「それで、いくらだった?」 「一千万円です。それを聞いて、ほっとしましたよ。家内は、まさか一千万円じゃ、私を殺さないでしょうからね」  亀井は、冗談まじりにいった。 [#改ページ]   恐怖の橋 つなぎ大橋      1  雫石《しずくいし》川は、盛岡市内で、中津川と合流して北上川になる。  その雫石川を、せき止めて作られたのが、御所湖《ごしよこ》である。このため、十四年の歳月と四百七十五億円が、ついやされた。  JR盛岡駅から、車で二十分も走れば、御所湖の静かな湖面が見えてくる。  湖にかかる繋《つなぎ》大橋を渡ると、有名な小岩井農場である。逆の方向に向えば、盛岡の奥座敷と呼ばれる繋温泉が見えてくる。  この繋大橋の上に、夜になると着物姿の美女が現われ、通りかかる男に声をかけてくるという噂《うわさ》が流れた。  その噂に尾ヒレがついて、女の誘いにのっていい思いをしたという男が出たかと思うと、逆に、死ぬほど怖い目にあったという話も、伝わってきた。  どちらも、調べていくと、あいまいになってしまうのは、噂話の特徴だが、ただ一つ共通しているのは、その女が三十歳くらいの年齢で、大輪のボタンの花模様の着物を着ているということだった。  痩《や》せぎすで、色白だということも、共通していた。  九月十一日に、繋温泉のS旅館に泊った東京の客も、夕食の時、仲居に、 「この先の橋の上に、美人の幽霊が出るんだってね?」  と、きいた。  仲居は、少しばかりうんざりした顔で、 「あんなの、いいかげんな噂話ですよ」  と、いった。  男の泊り客に多いのだが、やたらに繋大橋の上に現われる美人のことを、聞かれるからだった。  その中年の客は、 「だけど、会ったという人もいるんだろう?」 「そういう話もありますけどね。本当かどうか」 「じゃあ、正体はわからずかね?」 「ここの芸者さんの一人が、酔って、酔いざましに繋大橋の上を歩いているのを見たんじゃありませんか? あの橋の上は、涼しいから」 「何時頃に出るんだね?」 「出やしませんよ」  と、仲居はいったが、その客は午後十時頃になると、旅館の下駄を突っかけ、浴衣《ゆかた》の上に丹前を羽おって、出かけて行った。  仲居が、おかみさんに話すと、おかみさんは笑って、 「物好きなお客さまね」 「少し寒くなって来ましたから、カゼでもひかなければいいと、思うんですけど」  と、仲居は、いった。  今年の夏は、この盛岡も連日猛暑が続いたが、さすがに九月に入ると、涼しくなった。特に夜になると、風は冷たい。  それで、仲居は、カゼでもひかなければいいのにと、心配したのだが、その客はなかなか帰って来なかった。  十一時を過ぎても戻らないと、仲居もおかみさんも、心配になってきた。  タクシーを拾って、盛岡市内のバーかスナックにでも、飲みに行ってしまったのだろうかとも考えた。そんな客も、たまにいるからである。  しかし、十二時を過ぎても、帰ってくる気配がない。  おかみさんは、仲居一人を連れて、探しに出かけた。  ゆるい坂をおりると、国道に出る。それを渡ったところに、繋大橋がかかっている。  対岸に向って、まっすぐに延びる橋である。  昼間は、小岩井農場や、手づくり村へ行く観光バスや車で賑わう繋大橋だが、夜半過ぎの今はひっそりと静まり返り、何メートルおきかに灯っている橋の上の街灯が、やけにわびしく映る。  おかみさんと仲居は、橋を渡りながら、探した。が、泊り客は、見つからない。もちろん、噂の美人の姿もなかった。  二人は、いったん旅館に戻った。が、なかなか寝る気にはなれない。  とうとう、朝になってしまった。いぜんとして、客は帰らないので、おかみさんは警察に届けることにした。      2  宿泊カードによれば、この客の名前は、戸田雄一郎である。  住所は、東京都調布市になっている。S旅館にとっては、初めての客だった。  七人の警察官が、消防署員やS旅館の従業員と一緒になって、御所湖の周辺を捜索したが、なかなか見つからなかった。  二日目からは、御所湖に転落したのではないかというので、ボートを出しての捜索になった。旅館の下駄だけは見つかったが、男の方は見つからない。  S旅館では、家族にも、一応、知らせた方がいいと思い、宿泊カードにあった電話番号にかけてみたが、かからなかった。男は、実在しない、でたらめの番号を書いていたのだ。  四日後の九月十五日になって、沈んでいる中年の男の水死体が、見つかった。  S旅館のおかみさんと仲居が、問題の泊り客だと確認した。  死体は、解剖に廻されたが、その結果は溺死というものだった。旅館の仲居の話では、夕食の時、ビールを三本と、日本酒二本を飲んだということだから、その酔いが、まだ残っていて、橋の欄干から、転落したのだろうと、警察は、推測した。  S旅館では、ともかく、死んだ男の家族に連絡して、遺体を引き取りに来て貰《もら》わなくてはならない。  ただ、電話番号がでたらめだったから宿泊カードの住所、氏名も、信用がならなかった。  部屋に残された背広を調べると、上衣の内側に浅井とネームが入っている。どうやら、氏名も偽だったらしい。  運転免許証か名刺でもあればと思ったが、背広にあったのは、十六万二千円の入った財布と、キーホルダーだけだった。男は、茶色の革のショルダーバッグを持っていたのだが、この中にも、本当の住所、氏名がわかるものは、入っていなかった。  この事件は、新聞にものったので、S旅館では、その反応を待つことにした。が、二日たっても、三日たっても、問い合せの手紙も来なかったし、電話もかからなかった。      3  九月二十二日、S旅館に、三十五、六歳の女が、ひとりで泊りに来た。  宿泊カードに、彼女が書いた名前は、有田夕子で、住所は、東京の練馬区である。  夕食の時、彼女は仲居に、 「前に、御所湖で、事故があったんですってね」  と、話しかけた。 「ええ。男の方が、繋大橋から転落なすったんですよ」  と、仲居が、答える。 「夜おそく、出て行ったんですってね」 「ええ。幽霊を見に行くといわれましてねえ。幽霊なんて噂だけで、本当は出やしませんよって、申しあげたんですよ。それでもお出かけになって」 「何時頃、出かけたの?」 「午後の十時頃でした」 「あたしも、行ってみようかしら」  と、女は、いう。 「止めた方がいいですよ。今も申しあげたように、幽霊の話なんて、噂なんですから」 「でも、興味があるじゃないの」  と、女は、なおもいい、午後十時になると浴衣を脱ぎ、着がえて、出かけて行った。  仲居は、必死になって止めたし、行くのならお供しますといったのだが、女は、 「二人で一緒に行ったら、せっかくの幽霊が出なくなってしまうわ。だから、絶対に追って来ないでよ」  と、強い声で、いった。  仕方なく、仲居は、女をひとりで送りだしたのだが、やはり、心配で仕方がなかった。  おかみさんも、心配だという。仲居は、十二、三分して、女に叱られるのを覚悟で、繋大橋に出かけることにした。  男が死んだ時よりも、一層、風は冷たく感じられた。  橋の袂《たもと》に立って、すかすように見たが、人影らしいものは見当らない。不安は、大きくなった。  あわてて、他の仲居や男の従業員も呼んで、繋大橋の端から端まで、探し廻ったが、結果は同じだった。  おかみさんは、今度は、朝になるのを待たずに、警察に連絡した。警察も、駈けつけ、懐中電灯を使っての捜索になった。  しかし、その女が、水死体で発見されたのは、三日後だった。  S旅館では、女の家族に知らせようとして、また、前と同じことになった。女が書いた住所も、名前も、それに電話番号もでたらめだったのだ。  今度の事件は、二人目ということで、前より大きく、新聞、テレビが取りあげた。  二人とも、繋大橋に出るという女の幽霊を見に、夜出かけて行って、死んだということで、  〈幽霊の祟《たた》りか。男女が続けて死亡〉  と、書いた新聞もあった。  繋温泉では、怖い噂が流れて客足が遠のいては困ると考え、盛岡市役所にも頼んで、わざわざ幽霊話は嘘《うそ》、明るく健全な温泉ですというパンフレットを作って、配ることにした。  その一方、盛岡市役所の広報室では、幽霊話の出どころを探ることにした。  その結果、いろいろなパターンのあることが、わかってきた。  幽霊が女であることは、どの話でも一致していた。が、服装となると、まちまちだった。着物姿が一番多いのだが、白い洋服だという話もあることが、わかった。  問題は、幽霊の正体である。  繋温泉の芸者が、客に惚れたが、結局、失恋して繋大橋から、身を投げた。その芸者の名前は梅香という。こんな具体的な名前まで出てくる噂話もあった。しかし、よく調べてみると、確かに繋温泉に梅香という芸者がいたことは間違いないのだが、二年前に七十一歳で、病死しているのである。  繋温泉のある旅館の一人娘が、恋人が自動車事故で急死してから、精神に異常を来たし、彼とよく待ち合せの場所としている繋大橋のシオンの像の傍で、ひとりで着物姿で舞っていたという。彼女は日本舞踊の名取りだったという、いかにも、もっともらしい話までついているのだが、調べていくと、繋温泉には十七軒の旅館があるのだが、それらしい娘は見つからないのである。  東京からやってきた若い娘が、繋大橋から御所湖に落ちて溺死した。その怨念が幽霊になっているのだという説もあった。確かに今年の四月中旬に、二十五、六歳の女が御所湖で水死体で発見されていた。その時も、繋大橋からあやまって落ちたのだろうといわれた。  彼女が白いコートを身につけていたので、白い服の女の幽霊という噂話が生れたらしい。夜な夜な白い服の美女に誘われて、橋から湖に落ちて死ぬ男が、増えたという、まことしやかな噂もあったが、よく調べてみると、これも嘘だった。今回の二人の男女の死まで、繋大橋から落ちて死んだ人間はいなかったのである。  この若い女の名前は、結局わからずじまいだった。東京の女としたのは、彼女の身につけていた白のコートが、東京のデパートで売っているものだったからである。  結局、どの話もあいまいだったし、本当に女の幽霊を見たという証人は見つからなかった。      4  十月二十五日。  繋温泉の周辺では、もう紅葉も盛りを過ぎようとしていた。  S旅館に、五十五、六歳の男が、この日の午後、チェック・インした。宿泊カードには、小川耕一の名前と、東京都世田谷区中町の住所、それに、電話番号が書き込まれた。  二十五日に来て、二十七日に出発ということだった。二十五日の夕食の際、彼は仲居に向って、 「幽霊が出るというのは、この近くの繋大橋だったね?」  と、きいた。  仲居が、ぎょっとしたのは、このところ二人続けて、例の幽霊を見に出かけて死んでいたからである。 「まさか、幽霊を見に、夜、お出かけになるんじゃないでしょうね?」  と、仲居は、きいた。  相手は笑って、 「出かけるよ。幽霊というのを、一度は見てみたいと思っているんだ」 「あんなのは、嘘なんですよ。幽霊なんていません」  と、仲居はいい、盛岡市の広報紙を持って来て見せた。 「ほら、この通り、噂は全部嘘だと書いてあるでしょう」  といったが、それでも相手は、 「ひょっとして、幽霊に会えるかも知れないじゃないか。とにかく行ってみるよ」 「寒いですよ」 「コートを羽おって行くから大丈夫だ」 「前に、二人も、湖に落ちて亡くなっているんですよ。幽霊を見に行くといって、出かけられて。困ります」 「私は、そんなヘマはやらないから、大丈夫だよ」 「それなら、私がついて行きます」 「冗談じゃない。二人でぞろぞろ行ったら、幽霊が出なくなる。ひとりで、行きたいんだ」  と、男は、きかなかった。 「でも、前のお二人も、うちのお客さまだったんですよ。万一のことがあったら、それこそうちが、縁起の悪い旅館ということになってしまいますよ」 「そうか。それじゃあ申しわけないな」  と、男は、やっとあきらめた感じで、 「じゃあ、今夜はマッサージでもして、寝ることにする。十一時頃に、マッサージさんに来てくれるように、いってくれ」 「どんなマッサージさんが、いいですか」 「そりゃあもちろん、若くてきれいな人がいいよ」  と、男は、笑った。  仲居はほっとして、電話でマッサージを頼み、十一時になったら菊の間に行ってくれるように手配した。  そのマッサージが、十一時ちょっと過ぎに変な顔をして帳場に来た。 「菊の間のお客さん、いませんけど」  と、いう。  仲居は、あわてて菊の間に飛んで行った。  マッサージのいう通り、客の姿はない。布団は夕食のあとで敷いたままで、使った様子はなかった。浴衣と丹前も、布団の上に脱ぎ捨ててあった。  仲居は、青い顔になった。  あの客は嘘をついて、繋大橋に出かけてしまったのだ。  仲居から話を聞いて、おかみさんも、顔色を変え、すぐ夜の繋大橋に向った。仲居と男の従業員も一緒だった。  だが、橋の上に客の姿はなかった。  おかみさんも、仲居も、不吉な予感に襲われた。三人目の溺死者になってしまったのではないかと、思ったからである。 「すぐ、警察に連絡して!」  と、おかみさんが、ヒステリックに仲居にいった時、 「あれは──」  と、仲居は、橋の向うを指さした。  小さな人影が、現われて、それが、ゆっくりとこちらに向って、近づいてくる。  仲居は、じっと、すかすように見ていたが、 「よかった。あのお客さんですよ」  と、ほっとしたように、いった。  確かに、あの客だった。コートの襟を立てて、やや猫背の恰好で、近づいてくると、 「どうしたんです? おかみさんまで一緒になって」  と、呑気《のんき》にきいた。 「お客さんのことが心配になって、こうして探しに来たんですよ」  おかみさんは、穏やかにいったが、仲居は腹立たしげに、 「外出しないから、マッサージさんを呼んでくれって、おっしゃったじゃありませんか? 嘘なんかついて! だから、みんなが、心配したんですよ。当り前でしょう」 「いや、申しわけない。つい、美人の幽霊を見たかったものだからね」  と、男は、笑いながらいった。 「それで、きれいな幽霊に、会えたんですか?」 「残念ながら、会えなかったよ」 「ほら、ごらんなさい。幽霊なんかいないんですよ」 「たまたま、今夜は、出なかったのかもね」 「とにかく、戻りましょう。カゼをひきますよ」  と、仲居は、いった。  これで、この客も懲《こ》りたろうと、仲居もおかみさんも思った。  だが、翌二十六日も、男は、夜の十時近くになると、そっと旅館を脱け出した。  仲居やおかみさんがそれに気付いたのは、前日と同じ十一時過ぎだが、今度は呆れて、探しに行かなかった。きっと寒そうに戻って来るだろうと思ったからである。  それでも仲居は心配だったので、旅館の入口で、じっと待っていた。帰って来たら怒鳴りつけてやりたい気持も、あってだった。  しかし、十二時を回っても、今夜は客は戻って来なかった。  おかみさんは、すぐ、電話で警察に知らせておいてから、みんなで繋大橋に探しに出かけた。  深夜の繋大橋は寒々としていて、人通りも車の姿もない。その中にサイレンの音が聞こえて、パトカーが二台やって来た。  警官たちは、おかみさんから事情を聞くと、パトカーで橋を往復し、それから懐中電灯で、湖面を照らしていった。  しかし、見つからない。夜が明けてから警官が動員され、更にアクアラングをつけた救急隊員が、湖中に潜って捜索に当った。  その結果、二十八日の午後になって、男の死体が発見された。  この死体は、前の男女の場合と、少し違っていた。それは、手足と顔に、全部で数ヶ所の打撲痕が、見られたのである。  県警は、それを重視した。事故死よりも、殺人の可能性が強いと、思われたからだった。  死体は、大学病院で司法解剖に回され、警察は、家族に連絡を取ることにした。  S旅館の宿泊カードにあった電話番号にかけながら、刑事は、前の男女のことがあるので、多分通じないだろうという気がしていた。  受話器を耳に当てていると、向うで呼び出しのベルが鳴った。 (通じた)  と、ちょっと意外な気がしていると、 「もしもし」  という若い女の声が、聞こえた。刑事は、宿泊カードに眼をやって、 「小川さんのお宅ですか?」 「はい。小川ですけど」 「小川耕一さんのお宅ですか?」 「はい。私の父ですけど」  と、相手は、いう。 「こちらは岩手県警ですが、すぐ、おいで願えませんか。実は、盛岡近くの御所湖で、年齢五十五、六歳の男の人の死体が見つかったのですが、その人は旅館の宿泊カードに、小川耕一となっているんです。それで、あなたのお父さんかどうか、確認して頂きたいのですよ」 「───」 「もしもし」 「すぐ、そちらへ行きます」  と、女の声は、きっぱりといった。      5  その日の夕方、東京から、小川耕一の娘、小川夕香が、東北新幹線で到着した。  司法解剖は、すでに終っていた。県警の若い五十嵐という刑事が、彼女を大学病院へ連れて行った。  夕香は、大きく眼を見開いて、死体を見つめていたが、ふいに、声も立てず、眼を開いたまま、涙を流し始めた。 「お父さんのバカ」  と、夕香が小さく呟《つぶや》くのが、五十嵐には聞こえた。 「お父さんに間違いありませんか?」  と、五十嵐は、きいた。  夕香は、彼に強い眼を向けて、 「父は、殺されたんですか?」  と、逆に、きいた。 「解剖の結果は溺死ですが、外傷が数ヶ所あるので、殺人事件として捜査を始めると思います」  と、五十嵐は、いった。  彼は、夕香を促して、病院を出ると、捜査本部が置かれる盛岡西警察署まで、パトカーで送って行った。  その車の中で、五十嵐は、 「お父さんは、何をやっておられたんですか?」  と、夕香に、きいた。 「喫茶店をやっていました」 「おひとりで?」 「姉が亡くなってからは、私が手伝っていましたけど──」 「お父さんは、幽霊に興味を持っていましたか?」 「幽霊?」 「ええ。近くに繋温泉というのがありまして、お父さんはそこに、幽霊を見に来られたようなんです。温泉の傍に御所湖という人工の湖がありましてね。そこにかかる橋に、女の幽霊が出るという噂があるんです。お父さんは繋温泉に泊って、その幽霊を見に来たと、旅館の人たちにいっていたそうです」 「父が、幽霊なんかに、興味を持っていたとは、思えませんわ」  と、夕香は、はっきりといった。 「それならなぜ、そんなことをいっていたんですかねえ」  と、五十嵐は、首をかしげてから、 「喫茶店をやりながら、幽霊の研究をやっていたなんてことは、ないんですか?」 「いいえ。父は、前はサラリーマンで、最近になってお店を始めたんですけど、父から幽霊の話なんて聞かされたことは、ありませんわ」 「あなたは、どうですか?」 「私?」 「ええ」 「私も、幽霊に興味はありませんわ」  と、夕香は、いう。  この質問は、五十嵐が、個人的な興味でしたものだった。  夕香という娘が、自分と同じ二十五、六歳に見え、また、彼の好きな女優に、横顔が似ていたからである。 「前に、盛岡か繋温泉に、来られたことがありますか?」 「父は、旅行好きでしたから、来たことはあったかも知れませんが、私は聞いたことはありませんでしたわ」 「あなたは?」 「私? それが、捜査に必要ですの?」 「念のためです」 「私は、ありませんわ。仙台には、行ったことがありますけど」 「お父さんが殺されたとすると、あなたは何か思い当ることがありますか?」  と、五十嵐は、きいた。 「いいえ」 「今度の旅行に出かける時、盛岡の繋温泉に行くと、お父さんはいわれたんですか?」 「いいえ。ただ、三日ばかり、旅行に出かけると、いっただけです」 「行先も、目的も、いわず、ですか?」 「父は、いつも、そうでしたから」  と、夕香は、いった。 「そうなると、やはりお父さんは、幽霊を見に繋温泉に来たんですかねえ」 「でも、幽霊が父を殺す筈がありませんわ。そうでしょう?」 「ええ、もちろん。物盗《ものと》りとも、思えないのですよ。お父さんは、財布を持って、夜、旅館を出たんですが、その財布は盗られていませんからね」 「じゃあ、父を知っている人が、殺したんですか?」 「多分ね」 「父は、融通のきかないところがありますし、頑固ですけど、人に恨みを買うとは思えませんわ」 「被害者の家族は、たいてい、そういいます。当然ですよね。殺されて当然ですなどという家族はいませんからね。それに、優しい人ほど、被害者になり易いんです」  と、五十嵐は慰めるようにいった。  だが、夕香は、かたい表情で、 「父は、優しくはありませんでしたわ」  五十嵐は、何だか、鼻白んだ気分になって、 「あなたにも、優しくなかったんですか?」  と、きいた。 「ええ。亡くなった母にもね」 「でも、あなたは、お父さんが好きだったんでしょう?」 「尊敬はしていました。でも、父としては、どうしても好きになれなかった」 「だから、お父さんのバカ、といったんですか?」  と、五十嵐はきいたが、それには返事はなかった。 「とにかく犯人は、幽霊なんかではなく、お父さんの周辺にいる人間だと思います。だから、東京の警視庁に依頼して、その人たちを調べることになると思いますね。それに、あなたにも、今後、捜査に協力して頂くことになる筈です。あなたは、お父さんと一緒に喫茶店をやっておられたんでしょう。それなら、知らない中に、犯人に会ってる可能性がありますからね」  と、五十嵐は、いった。      6  警視庁捜査一課で、十津川は受話器を置くと、 「カメさん。小川さんが、死んだよ。盛岡で殺されたんだ」  と、亀井刑事に、いった。 「本当ですか」 「ああ。盛岡の繋温泉へ、幽霊を見に行って、殺されたらしい」 「幽霊ですか?」  と、亀井は、聞き返してから、 「そういえば最近、盛岡で、幽霊を見に行って、男と女が事故死していましたね。新聞で、読みましたよ」 「三人目が、小川さんということらしい」 「しかし、信じられませんね。向うの警察は、小川さんが幽霊に殺されたと、思っているんですか?」 「まさか。幽霊に殺されたと思えば、こちらに協力要請はして来ないさ。小川さんの交際関係を洗ってくれと、いって来ている」 「それなら、われわれも、容疑者になるんですか? この間まで、一緒に働いていたわけですから」  亀井は、笑って、いった。 「どうも、娘さんが、小川さんが捜査一課で働いていたことを、向うに話していないらしい」 「娘さんというと、夕香さんのことですね。彼女なら、おやじが元刑事だったことを、黙っているかも知れません」 「カメさんは、会ったことがあるのか?」 「ええ。小川さんの家に呼ばれたことが、何度かありましたからね。その時、夕香さんに会っています」 「どんな娘さんなんだ?」  と、十津川は、きいた。 「気性の激しい娘さんでしたよ。頭がいいからかも知れません。私も、やり込められたことがあります」  亀井が、微笑する。 「しかし、なぜ彼女は、父親が警察にいたことを黙っていたんだろう? 今、カメさんは、彼女らしいといったがね」  と、十津川は、きいた。 「それは、彼女が、警察を快く思っていないからだと思いますよ」 「それは、なぜなんだ?」 「小川さんが、定年前に、突然、警察を辞めたでしょう? 多分、それを彼女は、おやじが辞めさせられたと思っていたんじゃないですか。あの辞職は、突然でしたから」 「カメさんは、何か知ってるんじゃないの?」  と、十津川は、きいた。 「小川さんが辞める前ですが、今年の二月二十日、誘拐事件が起きました。いや、本当は誘拐ではなかったんですが、あの事件が、しこりになっていたようなんですよ」  と、亀井は、いう。 「あれは、久保警部が、担当した事件だろう。小川さんは、あの事件を捜査していたのか」 「そうです」 「それが、警察を辞める原因だったというのか?」 「私は、そう思います」  と、亀井は、いった。  妙な事件だったなと、十津川は思い出した。彼が、直接担当したわけではなかったから、詳細についてはわからないのだが、だいたいの経緯は承知していた。  資産家の一人娘、宮田さなえが、誘拐された。そう警察に駈け込んできたのは、宮田家の若いお手伝いだった。  宮田家に、電話を入れると、確かに、娘のさなえは昨日からいないが、父親は、旅行に出かけているのだという。  そのいい方に不審を持って、久保警部のチームが、ひそかに、調べ始めた。  二十五歳のお手伝いは、誘拐されたのだといってきかないし、宮田家は、娘がいなくなったことを、必死になって隠そうとする。どう見ても、誘拐の匂いがするのだ。  久保警部たちは、国立市にある宮田邸を監視した。すでに、犯人から、身代金の要求があったのではないかと考え、取引銀行も調べた。  その結果、その銀行から、五千万の現金が宮田邸に運び込まれたことがわかり、ますます、誘拐の可能性が強くなってきた。  ところが、三日後になって、意外な展開になった。  宮田さなえが、ボーイフレンドの坂西功と、下田の旅館で、心中を図り、さなえは死亡したが、坂西の方は死に切れず、地元の警察に出頭してきたのである。  坂西によれば、さなえは最愛の母親が急死してから、生きていく気力がなくなった。父親は、母が再婚した相手、つまり義父である。そんなことも、原因だったのかも知れないが、一緒に死んでくれといわれ、三日前から、二人で伊豆に旅行し、何とか説得して、帰宅させようとした。しかし、最後には、一緒に死のうと、坂西も思い、まず、さなえの首を締め、続いて自分は手首をナイフで切ったが、死にきれなかったというのである。  誘拐事件が、若い恋人同士の心中事件に変ってしまったのである。  坂西は、殺人容疑で逮捕されたが、裁判では執行猶予になり、釈放された。  これが、問題の事件の、だいたいの経緯である。 「小川さんの辞職と、これは、どんな関係があるんだ?」  と、十津川は、亀井にきいた。 「小川さんが辞めて間もなく、偶然、会いましてね。一緒に呑んだ時、小川さんはべろべろになりましてね。この事件は、まだ、終ってない。おれはそう主張したんだが、受け入れてくれないんだと、叫ぶようにいっていました」  と、亀井は、いった。 「そんな話は、聞いてなかったがね」 「小川さんは頑固な人ですが、警察にいる間は、自分の不満は、一言もいいませんでしたからね。辞める時も、ただ、一身上の都合としか、本多一課長や、三上刑事部長にはいわなかったようです」  と、亀井は、いう。 「あの事件で、自分の意見が入れられなかったのが、辞める原因だったのか?」 「そういっていました」 「娘さんにも、その話をしたのかな?」 「いや、していないでしょう。娘さんは、だから、小川さんが馘《くび》にされたと考えて、警察に反感を持っているんだと思いますよ」  と、亀井は、いった。 「小川さんは、盛岡に行って殺されてしまったが、カメさんはそれを、心中事件と結びつけて考えているみたいだね?」  と、十津川は、きいた。 「小川さんは、何か目的がないと動かない人だし、幽霊なんて信じない人です。その人が、幽霊を見に、わざわざ盛岡まで行く筈がないんです」 「しかし、幽霊話と心中事件が、どう結びつくんだろう? 宮田家の一人娘が死んだのは、伊豆の下田だからね」 「それは私にもわかりませんが、小川さんは、きっとつながっていると思って、盛岡の繋温泉に行ったんだと思います」  と、亀井は、確信ありげにいった。 「向うの県警は、物好きな男が、繋温泉の橋の上で、幽霊を見に来て誰かとケンカをして殴られ、湖に放り込まれて死んだと考えているようだな」  と、十津川は、いった。 「小川さんをあそこに引き付けたのは、幽霊なんかじゃありませんよ」  亀井は、きっぱりと、いった。 「どうだ、カメさん。二人で、繋温泉に行ってみるか?」 「行きたいですね」 「ただ、上の許可は出ないよ。心中事件はもう解決したことになっているからね。余計なことをするなといわれるのが、いいところだからね」 「それなら、休暇を取って行きましょう」 「よし。私も、休暇を取ろう。今夜中に向うに着ければ、休暇は一日ですむ」  と、十津川は、いった。      7  その日、繋温泉のS旅館に申し込んでおいて、十津川と亀井は、一八時四八分東京発のやまびこ21号で、盛岡に向った。  十津川は、列車に乗り込むと、手帳を広げた。 「久保警部に、あの事件のことを聞いて、メモしてきたんだよ」 「久保さんは、いい顔はしなかったんじゃありませんか」  と、亀井は、いった。  十津川は、笑って、 「ああ、その通り。小川さんのことを聞いたら、あの事件で、捜査員の間に、何の意見の食い違いもなかったといっていたよ」 「小川さんが死にましたから、そういわざるを得なかったんじゃありませんか。久保さんは、眼を三角にしていませんでしたか?」 「そういえば、していたねえ」 「あの人は、腹を立てると、眼が三角になるんです」  と、亀井は、笑った。 「私が興味があるのは、あの事件の関係者のその後なんだ」 「調べられたんですか?」 「簡単にだがね」 「どうなっていました」 「宮田家の当主の宮田慶一は、今でも宮田工業の社長だ。年齢は四十歳。青年実業家という奴だね」 「若いですね」 「宮田さなえの母親が、彼と再婚したとき四十七歳だから、年下の男と再婚したわけだよ」 「死に切れなかった坂西功は、今、どうしているんですかね?」 「それがわからないんだ。西本刑事に調べておいてくれと、出がけに頼んでおいたがね」 「あと、事件の関係者というと、誘拐されたと警察に駈け込んだ若いお手伝いですね」 「私は、彼女に、一番興味があるんだよ」  と、十津川は、いった。 「名前は、何といいましたか?」 「本田亜木子だ。天涯孤独で、宮田家のお手伝いをしている時、亡くなったさなえの母親に可愛がられていたし、一人娘のさなえとは、きょうだいみたいに仲がよかったそうだ」 「今、何をしているんですか?」 「行方不明だ」 「行方不明──ですか?」 「誘拐さわぎを引き起こして、宮田家にもいづらくなって、事件のあと辞めている。その後は、わからない」  と、十津川はいい、一枚の写真を手帳の間から取り出して、亀井に見せた。 「なかなか、美人じゃないですか」  と、亀井は、いったあと、 「しかし、天涯孤独と聞いたせいかも知れませんが、ちょっと寂しげに感じますね」  と、いった。  盛岡には、二一時三四分に着いた。列車を降りると、ホームには、冷たい風が吹いていて、二人は、首をすくめた。 「私は、盛岡は、初めてでね」  と、十津川がいうと、亀井も、 「私もです」 「東北生れのカメさんでも、まだ、行ってなかった町があるのか?」 「東北は、広いですからね。特にこの岩手県は、大きい県ですよ」  と、亀井は、いった。  駅前から、タクシーに乗って、繋温泉に向った。盛岡の町を抜けると、窓の外は、急に暗く寂しくなった。 「あれが、繋大橋ですよ」  と、運転手が、指さした。  御所湖にかかる大きな橋である。橋は、街灯の光の中に、ぼんやりと、浮んでいた。午後十時近い時刻のせいか、もちろん人通りもなく、車の往来も見当らず、女の幽霊が出てもおかしくない感じだった。  繋温泉のS旅館に入る。十津川がこの旅館を選んだのは、小川がここに泊ったと、聞いたからである。  部屋に入ると、小川の係だったという仲居を呼んで貰った。千代という中年の、その仲居は、十津川の質問に、 「あのお客さんのことなら、もちろんよく覚えていますとも。おかしな方で、繋大橋に出る幽霊を二日も見に行ったんですよ。みんな噂で、幽霊なんか出ませんよと申しあげたのに」  と、いった。 「二日もね」 「ええ。最初の日は、無事にお帰りになったんですけど、次の日の夜、また出かけて、あんなことに。きっと、幽霊が出ないのに腹を立てて、たまたま通りかかった人とケンカをして、殴り殺されて、湖に放り込まれてしまったんだと思いますわ」 「ケンカをしてねえ?」 「ええ。時々、あの橋の上に車をとめているアベックがいることがあるんですよ。あのお客さんは、幽霊が出ないものだから、腹立ちまぎれに、その車を、蹴飛ばしたんじゃないかっていう人もいるんですよ。幽霊が出ないのは、そんなところに車を置いておくからだと思って」  と、千代は、いう。 「それで、ケンカになった?」 「ええ。今の若い人って、自分の車を、ちょっとでも傷つけられると、ものすごく腹を立てるでしょ」 「そうですね」  と、十津川は、逆らわずに一応肯いておいてから、 「小川さんは、二日も、繋大橋に出かけている。幽霊が出ると、信じていたみたいだね?」  と、いうと、千代は、笑って、 「そうなんですよ。あんな分別ありげな方が、幽霊を信じていたなんてねえ」 「本当に、信じていたんだろうか?」 「ええ。信じていましたよ。だって、一日目に、幽霊に会わずにお帰りになったとき、ごらんなさい、ただの噂話だったでしょうと、いいましたら、たまたま、今夜は出なかったなんて、自分が行けば、必ず幽霊は出る筈だみたいないい方をなさっていましたからね」  と、千代は、いった。 「自分が行けば、必ず幽霊が出るみたいないい方をしたんですか?」 「あたしには、そんな風に思えましたけど」  と、千代は、いった。 「だが、あなたは、幽霊なんかいないと思っている?」  と、亀井がきくと、千代は、 「あたしだけじゃありませんよ。ここの人は、みんな幽霊なんかいないと思っていますよ。それに、困っているんです。幽霊を見に来て、続けて三人も、湖に落ちて亡くなっていますからねえ。お客さん方も、気をつけて下さいよ」  と、千代はいい、盛岡市の広報紙を見せてくれた。  幽霊が出るというのは、単なる噂話で、実際には幽霊なんか出ないから、夜、繋大橋に行かない方がいいと書かれた広報紙である。 「それを、あのお客さんにも、お見せしたんですけどねえ」  と、千代は、いった。      8  翌日、朝食のあと、十津川と亀井は、繋大橋へ出かけた。  やわらかな初冬の陽差しが、橋に降り注いでいた。昨夜、タクシーの中で見た寂しい橋とは違って、昼間の繋大橋は、対岸にある小岩井農場へ行く観光バスが、通過して行ったり、人が歩いていたりで、賑やかだった。  並んで歩きながら、十津川は、 「昨日、仲居さんが話してくれたことだけどね。幽霊を見に来て、死んだ二人の人間のことだ」 「ああ、この湖に落ちて、死んだ男女のことですか?」 「ああ。二人とも、宿泊カードに書かれていた名前も住所もでたらめで、結局、身元がわからないままになってしまっているといっていた」 「ええ」 「カメさんは、どう見るね?」  と、十津川は、きいた。 「確か、四十二、三歳の男と、三十五、六歳の女でしたね」 「そうだ」 「でたらめでも、一応、東京の住所を書いているところをみると、東京の人間だということは確かだと、思いますが」 「その点は、同感だよ」 「ただ、幽霊を見に来た客が、二人とも、水死してしまうというのは、奇妙だといえば、奇妙ですね」  と、亀井は、いった。  対岸の橋の袂に着くと、二人はゆっくりと引き返し始めた。 「カメさんは、幽霊を信じるかね?」  と、十津川が、きいた。 「美人の幽霊というのは好きですが、幽霊は信じません」  と、亀井が、答える。 「私もだよ。だが、幽霊に会いに東京からわざわざやって来て、夜の十時にこの繋大橋に見に来た人間が、三人もいる。水死した男女にしても、小川さんと同じ中年で、仲居さんの言葉を借りれば、分別盛りだ。どう考えても、奇妙だよ」  と、十津川は、いった。 「そうですね。いい大人が、三人も、幽霊の存在を信じて、東京からやって来たというのは奇妙です。しかも、三人とも、死んでしまった」 「カメさん、盛岡西警察署へ行ってみよう」  と、十津川は、いった。  S旅館に戻り、タクシーを呼んで貰って、二人は盛岡市に向った。  西警察署に着くと、小川の事件のための捜査本部の看板が出ていた。  十津川たちは、ここで、事件を担当している木崎という警部に会った。  十津川が、事件について聞くと、木崎は、 「あの事件については、通りすがりの犯行という線が濃いという見方になって来ています。被害者が、あの橋の上で、たまたま通行中の人間とケンカをし、殴り殺され、御所湖に、投げ込まれたのだろうとです。警視庁には、被害者の周辺を調べてくれるように、お願いしたのですが、それは、必要なくなりました」  と、いった。  ここの警察は、S旅館の仲居と同じようなことを、考えているらしい。  十津川は、その件については何もいわず、 「幽霊の正体は、白いコートを着て、あの湖で死んだ若い女のことではないかという話を聞いたんですが」  と、いった。 「幽霊を見たという人間は、調べていくと、一人もいないんです。どんな女が、幽霊になったかについても、繋温泉の芸者だとか、いろいろあるんですが、嘘がほとんどで、唯一、実際にあった話は、今、いわれた白のコートを着た二十五、六歳の女しかいないわけです。これは、実際にあった話です。今年の四月十五日に、あの湖で水死体で発見されていますから」  と、木崎は、いった。 「東京の女だったそうですね?」 「断定は出来ないのです。ただ、白いコートが、東京のデパートで売っているものだったから、東京と考えただけなのです」  木崎は、正直に、いった。 「その後、幽霊を見に来て、三人の男女が死んだわけですね?」 「その通りです。物好きな人間もいるものです」 「四月十五日に、白のコートで、死んだ女性ですが、顔写真はありますか?」  と、亀井が、きいた。 「死体になってから、鑑識が撮ったものはありますよ」  と、木崎は、いった。  二枚の写真を、十津川と亀井は、見せられた。  確かに、水死体で引き揚げられたあとに撮ったもので、眼を閉じ、水に濡れた写真は、気味悪いものだった。 「どこかで見たような顔ですね」  と、亀井が、いった。 「ああ、宮田家のお手伝いの本田亜木子にどことなく、似ているんだよ」  と、十津川は、いった。 「そういえば、そうですね。しかし、同一人だとなると、どういうことになるんですか?」 「お手伝いは居づらくなって、宮田家をやめた。その後、何かの用で、御所湖に来て、死んでしまったのだ」  と、十津川は、いった。 「その何かの用というのが、問題ですね。彼女自身、幽霊話のモトなんだから、幽霊を見に行ったということは考えられませんね」 「それに、盛岡は、彼女の郷里でもないんだ」  と、十津川は、いった。  二人は、西警察署を出ると、近くの喫茶店に入った。コーヒーを頼んでから、十津川は手帳に、何か書き込んでいたが、 「一連の事件を、起きた順に、並べてみたんだがね」  と、いって、それを亀井に見せた。 [#ここから1字下げ] ○四月十五日  二十五、六歳の若い女水死、幽霊話の元になる ○九月十一日  四十二、三歳の男水死 ○九月二十二日  三十五、六歳の女水死 ○十月二十八日  小川元刑事の他殺体発見 [#ここで字下げ終わり] 「その前の二月二十日に、東京の宮田家で一人娘の誘拐さわぎがあり、三日後の二十三日に心中未遂のあと、彼女だけが亡くなっているんだ」  と、十津川は、いった。 「警部は、関連があると、お考えなんですね?」  と、亀井が、きいた。 「私ではなく、多分小川さんは、関連があると考えて、盛岡へ来たんだと思うね。幽霊さわぎの、幽霊の正体も、知っていたんじゃないかな」  と、十津川は、いった。 「幽霊についてですが、繋温泉の芸者説とか、いろいろあったが、四月十五日に、御所湖で死んだ二十五、六歳の女だけが、本当だといっていましたね」 「その女だがね、私は、行方不明になっている本田亜木子とみて、間違いないと思っているんだ」  と、十津川は、いった。 「しかし、彼女が、なぜ、盛岡へ来たんでしょうか? 郷里でもないし──」  と、亀井は、いう。 「もちろん、何か理由があって来たんだと思っている。形は水死だが、殺されたんだとも思う。あの橋の上から突き落されたら、普通の人間は、助からないだろうからね」 「九月に死んだ男女も、水死でしたが、小川さんの場合は手足や顔を、殴打されていたと、県警は、いっていましたね。だから、殺人事件として、捜査に踏み切ったと」 「小川さんが、元刑事だったからだろう。しっかりと息の根を止める必要があって、犯人は、殴りつけ、死亡させてから、湖に放り込んだんだと思うよ」  と、十津川は、いった。 「小川さんは、誰に会いに、十月二十五日に繋温泉にやって来たんですかね? まさか、幽霊を見るためじゃないでしょうから」  と、亀井が、いう。 「小川さんは、二十五日に来て、その夜、午後十時に繋大橋に出かけ、翌日も出かけて、殺されている。恐らく、二十五日の夜、十時に、小川さんは、橋の上で、誰かと会う約束になっていたんじゃないかな? 或いは、呼び出したか」 「だが、相手は、来なかった──」 「ああ。だから、もう一度、翌日、同じ時刻に出かけて行った。S旅館の話では、小川さんは、二十五日にやって来て、二十七日に出発するといっていたそうだから、初めから、二十五、二十六日のどちらかに、橋の上で会うということになっていたのかも知れないね」 「小川さんは、二十五日の夜、幽霊に会えなかったと、仲居さんにいった時、当然、会えるみたいな口ぶりだったそうですからね。警部のいうように、会う約束が出来ていたようですね」  と、亀井も、いう。  二人が、S旅館に戻ると、仲居の千代が、 「東京の西本刑事さんから、十津川さんに電話がありましたよ」  と、いった。  十津川が、電話すると、西本が、 「宮田さなえと、心中に関って、助かった坂西功のその後ですが」 「わかったのか?」 「はい。現在、郷里の盛岡に帰ってゲームセンターを経営しています。市内の中ノ橋近くだそうです。中ノ橋というのは、市内に流れる中津川にかかってる橋だそうで、いい場所らしいですよ」  と、西本は、いった。 「もう一つ、調べて貰いたいことがある。宮田家のお手伝いをしていた本田亜木子のことだ」 「現在、何処にいるかですね?」 「いや、それはもう、わかったんだ。彼女は天涯孤独だったそうだが、恋人はいなかったかどうかを知りたい」  と、十津川は、いった。 「わかりました」 「慎重にやってくれ。私とカメさんが盛岡へ来ていることも、内緒なんだからね」  と、十津川は、念を押して電話を切った。  そのあと、十津川は、亀井に向って、 「本田亜木子がここへ来た理由が、わかったよ。死んだ宮田さなえの心中相手の坂西功が盛岡にいたんだ。本田亜木子は、彼に会いに来た。会った場所が、あの繋大橋の上だったんだろうね」 「坂西が、盛岡にですか?」 「ああ、彼の郷里だそうだ」  と、十津川は、いった。 「どんな男か、会ってみたいですね」 「これから、会いに行ってみようじゃないか」  と、十津川は、いった。  もう一度、タクシーを呼んで貰い、盛岡市内に向った。  市内を流れる中津川の中ノ橋近くで、タクシーを降りる。  周囲に、銀行や、県立図書館などがあり、東警察署の建物も見えた。  それと逆の丘陵地帯に向って、十分ほど歩いたところに、そのゲームセンターがあった。  真新しい店で、さまざまなゲーム機械が置かれ、若い男女というより、中高生と思われる連中が熱中していた。 「かなり、金がかかっている感じですね」  と、電子音の飛びかう店内を見廻しながら、亀井がいった。  十津川が、店員の一人に警察手帳を示して、坂西さんに会いたいというと、奥に案内された。  社長室にいたのは、長身のスポーツマンタイプの若い男だった。壁には、スキューバダイビングをやっている彼の写真が、誇らしげに飾られている。部屋の隅には、ゴルフの道具も置かれていた。  坂西は、笑顔で、十津川たちを迎えて、 「刑事さんも、ゲームをやられるんですか?」 「いや、ああいうのは、苦手でね」  と、十津川は、苦笑してから、 「この先の繋温泉に、女の幽霊が出るという話は、ご存知ですか? 橋の上にです」  と、きいた。 「盛岡に住んでいますから、知っていますよ」 「どう思われます?」 「僕は、興味がないですよ」  と、坂西は、いった。 「本田亜木子を、ご存知ですか?」 「ホンダ? 誰です?」  急に、坂西の顔から、笑いが消え、眉が寄った。 「ご存知ありませんか?」 「ええ。知りませんよ」 「おかしいな。あなたが、心中に関った宮田さなえさんの家にいた若いお手伝いですよ」  と、十津川は、いった。 「ああ」  と、坂西は、肯いて、 「彼女なら、知っていますよ。しかし、名前は知らなくて──」 「彼女が、今、どうしているか、ご存知ですか?」 「いや、知りません」 「今年の四月ですが、繋大橋のある御所湖で、二十五、六歳の若い女が、水死体で見つかっています。彼女が、本田亜木子だと思われるのですがね」 「違うでしょう。あの水死体は、結局、身元がわからないということですから」 「あの事件は、新聞に出ましたか?」 「ええ」 「その時、本田亜木子とは思いませんでしたか?」  と、亀井が、きいた。 「いや、似ていませんでしたからね」 「おかしいな。われわれが見ると、よく似ていますがねえ」  と、亀井が、いった。  坂西は、むっとした顔になって、 「それは、それぞれの見方でしょう。僕は、似ているとは思わなかったんだ」 「ところで、立派なゲームセンターですね。この店を持つには、かなり資金が必要だったんじゃありませんか?」  と、十津川が、きいた。 「何とかなりましたよ」 「どうやってですか?」  と、重ねて、十津川がきくと、坂西は、 「そんなこと、大きなお世話じゃありませんか」 「宮田家から、出して貰ったんじゃないの?」  と、亀井が、いった。 「なぜ、あの家から、出して貰わなきゃならないんですか」 「あんたは、宮田家の一人娘のさなえの恋人だった。その関係でさ」  と、亀井が、わざと乱暴な口調で、いった。 「恋人だったのは、本当ですよ。しかし、僕は、彼女を殺してしまった男ですよ。その上、自分は、死に切れなかった。そんな人間が、あの家から、金を出して貰えますか?」  と、坂西は、怒った声でいった。 「五千万」  と、亀井が、ぼそっといった。 「何のことですか?」 「二月のさわぎの時、宮田慶一は、取引銀行に五千万の現金を、持って来させているんだよ。だから、てっきり誘拐と考えてしまった」 「そんなことは、僕は、知りませんよ」 「あの五千万の現金は、どうなったのかな?」 「僕は、知りません。宮田さんに、聞いたらいいでしょう!」  と、坂西は、声を大きくした。      9 「本田亜木子は、お手伝いだったが、一人娘の宮田さなえとは、とても仲が良かったと聞いているんですが、その点はどう思いますか?」  と、十津川は、相変らず、丁寧な口調で、きいた。  坂西は、ほっとした表情になって、 「本当ですよ。年齢が近かったからでしょうね」 「その本田亜木子が、二月の時、ひとりで宮田さなえは誘拐されたといい張っているんですが、それはなぜですかね?」  と、十津川は、きいた。 「わかりません。彼女は、勝手に、そう考えてしまったんでしょう」 「しかし、現実にあなたは、下田へ出かけていたわけですよね」 「そうです」 「姉妹同様の本田亜木子に、宮田さなえはなぜ、旅行に行くといっておかなかったんですかねえ。いってあれば、彼女が誘拐だと、さわがなかったでしょうにね」 「それは、一緒に死のうということでしたから、誰にもいわずに、二人で出かけてしまったんです」  と、坂西は、いった。 「すると、最初から、心中するつもりで、家を出たわけですか?」  十津川は、不思議そうな顔をした。 「おかしいですか?」 「私は、下田へ行ってから、宮田さなえに、一緒に死んでくれといわれたんだと思っていたんですよ。東京を出発するときから、決っていたんですか?」 「ええ。そうです」 「その時、あなたはなぜ、そんなことはやめろと、説得しなかったんですか? それに、宮田慶一さんに、話すべきじゃなかったんですかね?」 「それは、彼女が義父の宮田さんとうまくいってなくて、それも、死にたがった理由の一つだったんですよ。だから僕も、宮田さんには話さなかったんです」 「下田には、車で行ったんですね?」 「ええ。僕の車で行きました。ねえ、刑事さん。あのことは、僕は忘れたいんですよ。わかって下さるでしょう? なぜ、ねちねちと、傷口に触れるようなことを聞くんですか?」 「理由はね、全く、信じていないからだよ」  と、亀井が、いった。  坂西は、顔を赤くして、 「何をいってるんですか?」 「お手伝いの本田亜木子が、誘拐だといってさわいだのは、それらしいことがあったからだよ。あんたは無理矢理、さなえを連れ出したんだ。無理矢理、車に押し込んで、下田に出かけたのさ。それを見ていたから、本田亜木子は、誘拐だといってさわいだんだ」 「でたらめですよ。そんなこと。僕とさなえは、ちゃんと下田のホテルに入っていますよ」 「その時のホテルの従業員の証言というのを、私は調べてみましたがね」  と、十津川はいって、坂西を見つめ、 「二人が着いた時、女の方はぐったりとして、男に支えられるようにして部屋に入ったと、証言していますよ」 「それは、彼女が、車の中でも、すぐ死にたいといって、いきなり睡眠薬を飲んでしまったんです。だから、ぐったりしているように、見えたんでしょう」  と、坂西が、いった。 「それも、おかしいですね。彼女はあなたに最初に、一緒に死んで欲しいといい、心中するために車で出かけたんでしょう?」 「ええ」 「それなのに彼女は、勝手に自分一人で、死のうとしたんですか?」 「それは多分、途中で、僕を巻き添えにするのはいけないと、思ったんでしょうね。優しい性格だったから」  と、坂西は、いった。 「じゃあ、彼女は、睡眠薬も持って行ったんですか?」 「ええ。あの頃、よく眠れないといって、睡眠薬を飲んでいたんです」 「しかし、かかりつけの医者は、睡眠薬を処方したことはないと、いっています」  と、十津川は、いった。これは嘘だった。  それでも坂西は、あわてた様子で、 「きっと、医者以外から手に入れていたんだと思いますよ」 「そんな手づるを、持っていたんですかね?」 「知りませんよ。とにかく彼女は、睡眠薬を持ってったんです」 「その睡眠薬は、どうしたんですか?」 「あわてて、車から、捨てましたよ」 「なぜ、捨てたんですか?」 「また飲んで、死んでしまったら、困るでしょうが」 「しかし、心中しに出かけたんでしょう?」  と、十津川は、きいた。 「もう、あのことは、答えたくない。帰って下さい!」  と、坂西はとうとう、怒鳴った。  十津川は、構わずに、 「浅井という男の人を、知っていますか?」  と、次の質問をした。 「アサイ? 誰ですか?」 「九月十一日に、御所湖で水死した中年の男です。偽名でS旅館に泊ったようですが、背広に浅井のネームが入っていたんです。だから、本名は浅井だと思うんですがね」 「知りませんよ。なぜ、僕に聞くんですか?」 「何となく、あなたが知っているような気がしましてね。それでは、同じ九月の二十二日に、これも御所湖で水死した三十五、六歳の女のことは、どうですか? 知りませんか?」 「帰って下さい!」  と、坂西は、また怒鳴った。      10  十津川と亀井は、外へ出た。  十月三十日の午後五時は、もううす暗い。  十津川は、盛岡の町を歩きながら、 「今日中に帰らなければいけないな」  と、いった。休暇は、一日しか取ってなかったからである。盛岡発の最終の新幹線は、二〇時〇五分だった。 「しかし、収穫はありましたよ」  と、亀井は、いった。 「そうだな」  と、十津川も肯いた。  二人はいったんS旅館に戻り、夕食を食べてから、今日の料金も払って、盛岡駅に急いだ。  二〇時〇五分発のやまびこ58号に乗った。  その車内で、十津川と亀井は、盛岡での収穫について語り合った。 「全てが、二月に起きた心中事件に発していますね」  と、亀井が、いった。 「あれは、心中なんかじゃなかったんだ。坂西が、心中に見せかけて、宮田さなえを殺したんだな」  と、十津川が、いう。 「捜査は、心中事件として坂西を逮捕して終ってしまったんですが、小川さんは、納得しなかったんでしょう」 「それで、辞めた。辞めたあとも、彼はこの事件をひそかに調べていたんだ」 「ええ。あの人は頑固で、なかなか納得しない人ですから」 「それで、今のわれわれと同じ結論に達したんだろうね。宮田さなえは、殺されたという結論にだ」 「ええ。さなえを殺したのは坂西でしょうが、それを頼んだのは、義父の宮田慶一でしょう」  と、亀井は、いった。 「動機は、宮田家の莫大な財産の独り占めか」 「そうでしょうね。妻はいいことに急死してくれたが、娘のさなえが残っていた。だから、彼女も、殺してしまったんだと、思いますね」  と、亀井。 「坂西への報酬が、五千万か」 「それで、あのゲームセンターを始めたんでしょう。社長で、彼も青年実業家というわけですよ。多分、坂西は、そんな肩書に憧れていたんでしょう。どうも青年実業家というのは、今の若者の憧れのようですから」  と、亀井は、笑った。  車内販売が来たので、コーヒーを注文した。  それを飲みながら、再び二人は話し続けた。 「心中について怪しんでいた人間が、小川さんの他に、もう一人いたわけだ」  と、十津川がいうと、亀井はコーヒーを一口飲んでから、 「そうです。本田亜木子が、いたわけです。彼女は、坂西が殺したと、確信していたんだと思います。その坂西が、盛岡でゲームセンターをやっているのを知って、四月十五日に会いに出かけたんだと思います。ひょっとすると彼女は、宮田さなえが無理矢理連れ出されるのを、見ていたのかも知れませんね。坂西の方は、うるさい奴がやって来たなと考え、彼女を繋大橋に誘い出して、突き落して、水死させたんだと思いますよ。天涯孤独の彼女が死んでも、名乗り出てくる家族はいないと読んだんでしょう。宮田慶一は知っていますが、彼が今回の犯罪に関係していれば、名乗り出る筈がありません。身元不明の女が事故死しても、すぐ話題にはならなくなると思った筈ですよ」 「ところが、まずいことに、幽霊話が生れてしまった」  と、十津川は、いった。 「そうです。それが、いつまでも残ってしまったわけです」 「九月にその幽霊を見にやって来た、中年の男や女を、どう考えるね。二人とも、御所湖で水死しているが」  と、十津川が、きく。 「二人とも偽名を使っていますから、うさん臭い人間だと思いますね。その上、いまだに身元が割れないというのも、不自然ですよ」  と、亀井は、いった。 「この二人とも、二月の心中事件に関係していると思うかね?」 「あの時の登場人物は、死んだ宮田さなえ、殺したと思われる坂西、それにお手伝いの本田亜木子の三人しか、浮んで来ませんが」 「だが、繋温泉に来たところをみるとね。しかも、繋大橋の幽霊を見に来ている」  と、十津川は、いった。 「確かに、そうですね」 「カメさん」 「はい」 「宮田家の奥さんだが、確か名前は、宮田文子だったね」 「そうです」 「彼女は急死したということを聞いたんだが、どんな死に方をしたんだろう?」 「そこまでは、わかりませんが──」 「もしそれも他殺だったら、問題の二人は、それに関係しているのかも知れない」  と、十津川は、いった。 「宮田慶一が、やらせたということですか?」 「そうだ。宮田は、財産狙いで宮田文子と結婚して、入り込んだ。しかし、なかなか財産を自由に出来ない。そこでまず、妻の文子を殺し、次に心中に見せかけて、一人娘のさなえを殺した──」 「あり得ることですね。そうなると、九月に死んだ男と女は、宮田慶一に命令されて、繋温泉に来たことになりますね?」 「私の考えた通りならね」  と、十津川は、いった。  二三時三二分に、東京着。迎えに来ていた西本刑事が、 「本田亜木子のことを調べてみましたが、男のかげはありませんね。本当に、天涯孤独だったようです」 「だから、なおさら、宮田さなえのことを、考え続けていたんだろうな」  と、十津川は、いった。  十津川は、自宅には戻らず、そのまま警視庁に向った。泊り込んででも、一刻も早く、今回の事件を解決したかったのだ。 「宮田文子の急死の事情を調べて欲しい」  と、十津川は、西本にいった。  翌日、西本は、日下と一緒に聞き込みに廻ったが、戻ると、十津川に、 「宮田文子は、去年の十二月五日に、心臓発作で亡くなっています。もともと心臓に持病を持っていたようです」  と、報告した。 「その時、夫の宮田慶一は、どうしていたんだ?」 「彼は、宮田工業の副社長になっていました。社長は、妻の文子です。宮田はその時、九州に出張していました。これは間違いありません」 「心臓の持病があったとすれば、薬を飲んでいたわけだろう?」 「そうです。医者の処方した錠剤を、毎日、食後に飲んでいたようです」 「それに、逆に発作を起こすような薬を、仕込んだのかも知れないな」 「しかし宮田慶一は、医学的知識は、全くないそうですよ。もともとは、芸能界で、プロダクションの社長とか、マネージャーなんかを、やっていた男ですからね」  と、西本は、いった。 「芸能界にいた人間なのか?」 「芸能界でも、その裏側といった方がいいかも知れません。得体の知れない人間がいる世界のようですからね」 「それかも知れないな」  と、十津川は、いった。 「どういうことですか?」  西本と日下が、首をかしげるようにして、十津川を見た。 「繋温泉で死んだ男と女さ。その世界で、宮田慶一と知り合ったのかもね」 「しかし、二人とも名前がわからないでしょう」  と、亀井が、いった。 「男の本名は、多分、浅井だ。年齢は四十二、三歳。女は、三十五、六だ。宮田が結婚前に知り合っていた男女の中で、これに合った奴を見つけ出してくれ」  と、十津川は、西本たちにいった。  S旅館の千代という仲居や、おかみさんに聞いた人相で、似顔絵を作ってきたから、それも西本たちに持たせた。  その日の中に、西本と日下が、ニコニコしながら戻って来た。 「どうやら、見つけたようだな?」  と、十津川がいうと、西本が、 「二人とも、わかりました。男の方ですが、名前は、警部のいわれた通り、浅井誠。四十二歳です」 「宮田慶一とつながっていたか?」 「その通りです。彼が五年前、アスカカンパニイというインチキプロの社長をやっていた時、そこで働いていた男です」 「経歴もわかるか?」 「平凡な経歴ですが、興味があるのは、薬剤師の免許を持っていることです」  と、西本が、いった。 「そいつは面白いな」 「彼の家は、九州の八代で薬局をやっているんですが、それで薬剤師の免許をとったんだと思います。ところが浅井は、一攫《いつかく》千金を夢みて、芸能界に入り、もちろんうまくいく筈がなくて、実家や親戚などから金を借りまくり、そのため、絶縁されている状態です」 「それで、死んだ時も、照会がなかったんだろうね」 「芸能界では、うまくいかなかったんですが、浅井を知る人間に聞くと、便利な男で、どこからか市販されてない薬を調達してくれるので、アメリカ製の抗ガン剤とか、睡眠薬を買って貰ったといっています」 「女の方は?」  と、十津川がきくと、今度は日下が、 「名前は細川ひろこ。三十五歳です。一時期有名な女性タレントのマネージャーをやっていましたが、そのタレントの名前を使って、サギを働いて、危く訴えられかけたことがあります。そのあと、宮田慶一のやっていたアスカカンパニイで働いていました」  と、いった。 「だから二人とも、宮田慶一と関係があったんだな」  と、十津川は、肯いた。  浅井が、心臓の動きを激しくする薬を手に入れ、それを宮田慶一が、妻の文子が常用している心臓薬の錠剤にすりかえて、入れておいたのではないか。飲む量を計算して、一粒だけ入れておき、その間、九州に出張している。出来ないことではないだろう。  また、下田で殺された宮田さなえが、車の中で飲んだという睡眠薬も、浅井が用意したものだという可能性が強い。  細川ひろこの役割はわからないが、宮田慶一の女だったのかも知れないし、宮田家に入った慶一と、浅井との連絡係をつとめていたのかも知れない。 「宮田慶一は、この二人にも、大金を払ったんでしょうね」  と、亀井が、いった。 「坂西に、五千万払ったとすればね」 「それで、この二人が、繋大橋に幽霊を見に行って死んだことは、どう説明がつきますか?」 「慶一は、この三人を使って、妻と娘を殺して、全財産を自分一人のものにした。だが、この三人は、彼にとってアキレス腱でもある。何かあれば、たちまち資産家の椅子から、殺人犯の位置に転がり落ちるんだ。だから、常にこの三人の動きを、注目していたと思うね」  と、十津川は、いった。 「そうでしょうね。特に坂西のことは、気になって仕方がなかったんじゃありませんか。浅井と細川ひろこは前からの知り合いですから、ある程度、気心は知れていますが、坂西は、さなえの恋人だというので、利用したわけですからね」  と、亀井は、いった。 「それに、遠い盛岡にいるからね。そんな時、四月の事件が起きた。二十五、六歳の若い女が、繋大橋から御所湖に落ちて水死したというニュースだよ。慶一は、彼女がお手伝いの本田亜木子と、すぐわかった筈だ。それに、何をしに盛岡へ行ったかも、ね。とすれば、殺したのは坂西に決っているとも思った筈だよ。幸い、天涯孤独の本田亜木子は身元不明ということで処理されてしまって、慶一はほっとしていたと思うね」 「そして九月になって、浅井が繋温泉に幽霊を見に行って水死してしまったのは、なぜですか?」  と、西本が、きいた。 「あくまで推理するより仕方がないんだがね。九月になって坂西は、また、金を要求してきたんじゃないだろうか。最近のゲームセンターというのは金がかかる。一台、一台のゲーム機がどんどん高価になっているからね。カメさんと一緒に見たあのゲームセンターにも、一千万近い機械が何台か置いてあったよ。乗ると宇宙遊泳の気分が楽しめる機械とかね。いくらでも金が必要だろう。だから、また、金を要求した。慶一はその金を浅井に持たせて、盛岡に行かせたのだ。坂西の預金口座に振り込んだのでは、証拠として残ってしまうからね」 「その受け渡し場所が、繋大橋だったわけですね」  と、日下が、いう。 「そうだよ。浅井は旅館の仲居やおかみさんには、幽霊を見にきた物好きと思わせたんだろうね」  と、十津川は、いう。 「しかし、その浅井が、なぜ、死んでしまったんでしょう? そこがわかりません」  と、亀井が、いった。      11 「殺したのは、坂西だよ」  と、十津川は、いった。 「それが、わからないんです。わざわざ、金を持って来てくれた人間を、なぜ坂西は、水死に見せかけて、殺してしまったんでしょうか?」  と、亀井が、首をかしげた。 「最初、私は、こう考えたんだ。坂西は、慶一にとって、危険な存在だ。だから浅井に、彼を殺して来てくれと頼んだのではないかとね。金を渡して安心させておいて、殺して来てくれないかとだよ」 「殺そうとして、若い坂西に、逆に殺されてしまったということですか?」  と、西本が、きく。 「そう考えてみたんだ」 「当然、次の細川ひろこのケースも、同じように考えられますね」 「そうだ。だからこの推理には、自信がなくなった。男の浅井が、逆に殺されてしまったのに、女の細川ひろこに、坂西を殺して来いと、慶一が命じる筈がないと、考えたんだよ」  と、十津川は、いった。 「他に、どう考えられますか?」 「坂西が九月にまた、金を要求してきた時、慶一は、金はやるが、それにふさわしいことをやってくれと、いったんじゃないだろうかと、考えてみたんだよ」  と、十津川は、いった。 「浅井を殺すことですか?」 「そうさ。慶一にとって、坂西は危険な存在だが、浅井やひろこも、同じなんだ。だから、いつかこの三人も、消してしまおうと、慶一は思っていた筈だよ。坂西が金を要求してきたのをチャンスに、彼にまず浅井を殺させようと考えたのではないだろうか。もちろん、浅井には何もいわない。近頃、女の幽霊が出るという繋大橋で、坂西に金を渡してくれといって、札束を渡す。浅井は、呑気に、温泉にでもつかる気で、盛岡へ行ったと思うね」 「細川ひろこも、同じですか?」 「ああ、そうだ。そう考える方が、自然だと思ったんだよ」  と、十津川は、いった。 「すると、坂西は、三人の人間を宮田慶一に頼まれて、殺したことになりますね?」  と、日下が、きいた。 「そうだ。その代り、坂西は、大金を手に入れた筈だよ。一人五千万として、一億五千万だ」  と、十津川は、いった。 「ということは、慶一にとって、坂西は、ますます危険な存在になったということじゃありませんか?」 「だろうね」 「そうなると、この後、どういうことになるんですか?」 「もちろん最後に、宮田慶一は、坂西功を殺すつもりでいると思うよ。そうしなければ、安心して眠れないに違いないからね」  と、十津川は、いった。 「それも、このところ、余計安眠できなくなっているんじゃありませんか? 小川さんが事件の真相に迫ろうと、繋大橋に出かけていますからね。小川さんは、幽霊の代りに、繋大橋に坂西を呼び出したに違いないんです。そんなことを知れば、東京の宮田慶一は、ますます神経質になってしまうんじゃありませんか? 一刻も早く、坂西を消してしまわなければならないと。彼さえいなくなれば、ひとまず安心できますからね」  と、亀井は、いった。  十津川の表情が、険しくなった。 「すぐ、慶一が今、何処にいるか、調べて来てくれ」  と、十津川は、西本たちに命令した。  西本たちは、飛び出して行き、電話してきた。その声が、あわてていた。 「宮田慶一は、いません」 「いないって、どういうことなんだ?」 「自宅にも、会社にもいないんです。自分でベンツを運転して、何処かへ出かけたそうです」  と、西本は、いった。  十津川は、受話器を持ったまま、腕時計に眼をやった。  五時半になっている。 「私とカメさんは、これから盛岡に行く。携帯電話を持って行くから、このあと宮田慶一について何かわかったら、知らせてくれ」  と、十津川はいって電話を切り、亀井を促して、部屋を飛び出した。  タクシーを拾って、東京駅に向う。 「宮田慶一は、盛岡に行ったと思われるんですか?」  と、亀井が、きく。 「他に考えようがないよ」 「しかし、なぜ、車で行ったんでしょうか? 時間がかかって仕方がないでしょうに」 「理由は、わからないが、おかげでわれわれが追いつけるかも知れない」  と、十津川は、いった。  東京駅に着いたのが、十八時二八分。一八時四八分発盛岡行のやまびこ21号に乗ることが出来た。 「これで、間に合うんでしょうか?」  亀井が、不安気に、きいた。 「正直にいってわからないが、彼は、繋大橋に坂西を呼び出して、殺そうと思っているんじゃないか。時刻は夜の十時。それなら、間に合うんだ。この列車の盛岡着が、九時三四分だからね」  と、十津川は、いった。 「坂西が、宮田慶一に呼び出されて、のこのこ繋大橋に出て行くでしょうか?」  と、亀井が、きく。 「出て行かないだろうね」  と、十津川は、笑ってから、 「ただ、いい方によっては、出て行く筈だよ。また一人、消して貰いたい人間がいる。報酬は前と同じ五千万。前と同じく、午後の十時に五千万持って繋大橋に行かせるといって、その人間の特徴をまことしやかに伝えるんだよ。これなら、前に二人殺して金を貰っているから、坂西は信用して、午後十時に繋大橋に出てくるんじゃないかね」 「なるほど。五千万に釣られて、出て来ますね。それに、坂西にしてみれば、そんなに難しい作業じゃない」  と、亀井も、肯いた。  列車が大宮に近づいたところで、十津川の携帯電話が鳴った。西本からの連絡だった。 「宮田慶一ですが、プロダクションをやっていた頃、芸能人たちの作っている射撃のクラブに入っていました。今も、射撃は趣味で、何丁も高価な銃を持っているそうです」  と、西本は、いった。 「ライフルか」  と、十津川は、唸《うな》った。  それで、車で盛岡へ行くことにしたのか。ライフルをケースに入れて持っていては、列車では目立つからだ。 「カメさん。ひょっとすると、われわれも、拳銃を使うことになるかも知れないよ」  と、十津川は、亀井に、いった。  定刻の二一時三四分に、列車が盛岡に着いた。  走って改札を出て、タクシーに乗り込む。風がないせいか、意外に寒くなかった。  繋大橋の手前で、亀井をおろし、十津川は、タクシーに乗ったまま、橋を渡ることにした。  橋の中ほどのところに、赤いスポーツカーがとまっているのが、眼に入った。  男が、一人乗っている。坂西に違いなかった。  タクシーで橋を渡り、少し過ぎたところで、十津川は車から降りた。 「何かあるんですか?」  と、運転手が、きいた。 「しばらく、橋には近づかない方がいい」  と、十津川は、余分に料金を渡して、運転手に、いった。  坂西が、橋の中央にいるのは、わかった。  だが、宮田慶一は、何処にいるのだろうか?  街灯に、腕時計をかざしてみる。  あと六分で、午後十時である。  宮田慶一が、何処にひそんでいるにせよ、坂西が車の中にいるのでは、狙撃できないだろう。  午後十時になって、坂西が、車の外に出たところで、射つつもりに違いない。  十津川は、身をひそませて、じっと橋の上を見すえた。  向う側からも、亀井が橋を見つめている筈だった。  今夜は少し暖かいせいか、橋の上は、かすかにもやがかかったように見える。  午後十時。  赤いスポーツカーから、男が降りて、腕時計を見ている。  十津川は必死になって宮田慶一を探す。  橋の袂のシオンの像のかげで、一瞬、何かが動いたように見えた。  十津川がいる場所からは、距離がある。  彼は、拳銃を抜き出し、走り出した。  ブロンズ像のかげに身体を伏せて、ライフルを構えている人間の姿が、スローモーションのように、のろのろとした感じで迫ってくる。 「宮田慶一!」  と、十津川は、走りながら、叫んだ。  その瞬間、ライフルの鈍い発射音が、夜の橋の上にひびいた。  だが、十津川の声で動揺したのか、弾丸は坂西にではなく、スポーツカーに命中して、フロントガラスが粉々に砕け散った。  ブロンズ像のかげにいた人間は、立ち上ると、手に持っていたライフルを、湖に投げ捨てて、逃げ出した。  十津川が、追う。  橋から離れた場所に、隠すようにとめてある車に、相手が近づいた時、十津川が追いついて飛びかかった。  二人の身体がもつれて、地面に転がった。  それでも、なお逃げようとする相手に向って、 「逃げれば、射つぞ!」  と、十津川は、怒鳴った。  相手の足が止まって、立ちすくむ。  亀井が、息を切らせながら、駈けつけてきた。  十津川は、相手に手錠をかけ、その場に座らせていた。 「やっぱり、宮田慶一ですか」  と、亀井は、相手の顔をのぞき込んだ。 「坂西の方は、どうしている?」  と、十津川は、亀井にきいた。 「スポーツカーに、手錠でつないでおきました。自分が殺されかけたと知って、青くなっていますよ。警部の考えられたように、坂西は、ハンターのつもりで、この繋大橋にやってきたのに、自分が獲物だったと知って、ショックを受けているようです。あの状況なら、いろいろと喋ってくれると思いますね」  と、亀井が、声を弾ませた。 「おれは、何も、喋らんぞ!」  と、手錠のまま、宮田慶一が叫んだ。  十津川は、笑って、 「何も喋らなくていいさ。その手を調べれば、硝煙反応が出るし、湖から、君が捨てたライフルが見つかる。少くとも、殺人未遂は成立するんだ。それだけでも、君は、何人もの人間を殺して、やっと手に入れた莫大な財産を失うんだ」  と、いった。  その一言で、慶一は、黙ってしまった。よほど、財産を失うのが、怖いのだろう。  十津川は、言葉を続けて、 「もちろん、それだけですむことはないよ。君が、妻の文子を、心臓発作に見せかけて殺し、一人娘のさなえを心中に見せかけて、坂西に殺させたことも、証明してやる。そうなれば、財産を失うどころじゃない。まず、死刑に間違いないな」  と、いった。      12  宮田慶一と坂西功は、正式に逮捕された。  いくつもの殺人と、殺人教唆の容疑でである。  二人とも、一部は認めたが、一部は否認していた。  それでも結局、全てを認めることになるだろうと、十津川は楽観していた。  二人が逮捕されると、さまざまな証言が集ってきていたからである。  死んだ浅井が、酔って、宮田慶一に頼まれて、心臓発作を起こすような薬と、睡眠薬を渡したと喋るのを聞いた友人。  慶一が、九月に二回、浅井と細川ひろこが死ぬ前日に、それぞれ五千万の現金を、銀行から運ばせていたという銀行側の証言。  四月十六日、九月十二日、九月二十三日、そして十月二十七日、のそれぞれ早朝、坂西がボンベを車に積み、出かけるのを、彼が経営するゲームセンターの店員が、目撃していた。  それぞれ、本田亜木子や、浅井、細川ひろこ、そして小川元刑事が、繋大橋から消えた翌朝である。恐らく坂西は、湖にもぐって、本田亜木子たちが死んでいるのを、確かめたのだろう。  小川が警視庁を辞めたあと、娘の夕香と喫茶店をやりながら、宮田慶一や坂西功のことをひそかに調べて、記入していたメモも見つかり、夕香の手から十津川に届けられた。  それを読むと、小川も、十津川たちと同じように推理し、十月二十五日に、坂西に会いに、繋温泉に出かけて行ったことがわかる。  宮田慶一と坂西功は、起訴された。  正月を迎えた時、十津川は、意外な人から年賀状を受け取った。  S旅館の千代という、あの仲居からだった。年賀ハガキに、細かい字で、次のように書いてあった。 [#ここから1字下げ] 〈新年おめでとうございます。 昨年はいろいろと、ご苦労様でございました。 事件が解決したので、幽霊の噂も消えるものと思っていたのですが、かえって話は大きくなり、女の幽霊の他に男の幽霊まで出るということになってしまいました。これを呆れたらいいのか、宣伝になって喜ぶべきなのか思案しております。 繋温泉にも雪が降りました。今度は、雪景色と温泉を楽しみに、亀井刑事さんとおいで下さいませ。 [#地付き]千代〉 [#ここで字下げ終わり]  初出掲載誌「オール讀物」   恐怖の海 東尋坊 平成6年1月号   恐怖の湖 富士西湖 平成6年4月号   恐怖の清流 昇仙峡 平成6年6月号   恐怖の橋 つなぎ大橋 平成6年11月号  単行本 一九九五年六月 文藝春秋刊 〈底 本〉文春文庫 平成九年十二月十日刊